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広島高等裁判所 昭和45年(う)193号 判決

控訴人 被告人

被告人 岡部保

弁護人 青木英五郎 外

検察官 瀧岡順一

主文

第一審判決中判示第二の窃盗、第三の強盗殺人に関する部分を破棄する。

被告人を懲役六月に処する。

本件公訴事実中強盗殺人の点については被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人小河虎彦、同小河正儀および被告人が旧二審に提出した控訴趣意書のほか、同趣意書を補充する意味で当審で援用した(一)被告人および弁護人小河虎彦、同小河正儀両名提出の上告趣意書、(二)同阿左美信義、同原田香留夫連名提出の上告趣意書、同正誤表、同阿左美信義外四名連名の同補充書、(三)同青木英五郎、同沢田脩、同熊野勝之、同原滋二四名の上告趣意書、同青木英五郎外一八名連名の同補充書、(四)同西嶋勝彦提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(五)同渡辺脩提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(六)同石田亨提出の上告趣意書、同補充書、(七)同及川信夫提出の上告趣意書、(八)同佐藤久提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(九)同原田敬三提出の上告趣意書、同正誤表、(一〇)同榎本武光提出の上告趣意書、同正誤表、同補充書、(一一)同寺田熊雄提出の上告趣意書、同補充書、(一二)同井貫武亮提出の上告趣意補充書(但し、旧二審判決に対する批判攻撃のみにかかる趣旨のものは除く)の記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は旧二審における控訴趣意書に対する答弁書並びに右答弁を補充する意味で当審で援用した上告審における検察官の答弁書および当審における検察官の答弁書(二通)記載のとおりである。

ところで、本件は上告審からの差戻事件であるので、従来の審理経過の概略を述べることとする。

(一)  本件起訴にかかる公訴事実の要旨は

被告人は

(1)  昭和二七年七月中ごろ、窃盗の目的で、山口県吉敷郡大内町高芝食料品、雑貨商杉山正二方に侵入し、金品を物色中、家人に発見されて逃走し、その目的を遂げなかつた(昭和三〇年一〇月三一日起訴、以下甲事件と略す)

(2)  昭和三〇年六月中ごろ、大阪市天王寺区逢坂上之町四八番地生越好一方前路上で大阪市所有の孔鉄蓋(時価一、五〇〇円相当)を窃取した(同年一二月一〇日起訴、以下乙事件と略す)

(3)  昭和二九年一〇月二〇日頃郷里山口県に帰り、同県吉敷郡大内町近辺を徘徊の末、同月二六日午前零時頃、同町大字仁保中郷二九一五番地(現在は山口市に編入)の山根保方堆肥場にあつた唐鍬を携えて、同人方母屋に至り、土間物置内の金品を物色していた際、同人の妻美雪(当時四二年)に気付かれ、誰何されるや、茲に同家家人を殺害して金品を強取しようと決意し、奥六畳間に入り、起き上ろうとする同女の頭部を所携の唐鍬で乱打し、続いてその傍に就寝中の保(当時四九年)および同人の五男実(当時一一年)、隣室表下六畳間に就寝中の三男照男(当時一五年)および四男一吉(当時一三年)の各頭部を順次同様乱打し、次いで納戸四畳半の間に入り、起き上ろうとする保の母トミ(当時七七年)を押し倒し、その頭部を同様乱打して、再び保夫婦の寝室に引返し、なおも同人の頭部を同様乱打して、右六名にそれぞれ瀕死の重傷を負わせた上、同室の本箱の抽斗にあつたチヤツク付財布内及び納戸にあつた箪笥の小抽斗内より合計約七、七〇〇円を強取し、最後に台所にあつた出刃庖丁をもつて右六名の頸部を順次突き刺すと共に保夫婦及びトミに対してはその胸部をも突き刺し、以上の各損傷による失血のためそれぞれ死に致して殺害したうえ、保夫婦の寝室に掛けてあつた洋服上衣一着を強取した(昭和三一年三月三〇日起訴、以下強盗殺人事件という)

というのである。

(二)  一審判決の要旨

右強盗殺人事件の公訴を受理した一審合議部は昭和三一年三月三一日、既に単独部に係属していた甲、乙事件をも併合審理する旨決定し、同年五月二日以降その審理に当つたのであるが、被告人は、甲、乙両事件については全く事実を争わず自白したものの、強盗殺人の事実については強く否認し、同犯罪発生の当時大阪市天王寺公園を離れ、山口県下に帰来したことはないと主張し、捜査機関に対する自白は強制、拷問、誘導による虚偽の自白であるとしてその任意性、信用性を否定してきた。これに対し、一審は被告人の司法警察員に対する供述調書は任意性に疑があるとして証拠能力を否定したが、検察官に対する供述調書および検察官に対する供述を録取した録音テープの内容たる自白は、任意性、信用性に缺けるところがないと認め、そのほか多数の証拠を掲げ、かつ、詳細な証拠説明を加えて、昭和三七年六月一五日、被告人をいずれも有罪と認め、中間確定裁判の関係で甲事件につき懲役四月、乙事件および強盗殺人の事実につき死刑を言渡した。

(三)  差戻前の二審(以下旧二審という)判決の要旨

右一審判決中、懲役四月を言渡した甲事件については、適法な控訴がなく確定したが(昭和三七年九月一二日その刑の執行も終了した。)、乙事件の窃盗は強盗殺人の事実と併合罪として一個の刑が言渡されている関係でともに控訴されたのである。

旧二審においても一審同様窃盗の事実関係については全く争いがなく、専ら、強盗殺人の事実について新らたに証拠調や弁論が行われたが、旧二審は昭和四三年二月一四日、次のような理由で控訴棄却の判決を言渡した。即ち、まず、一において、拷問、強制を理由に自白の任意性、信用性を争い事実誤認を主張する論旨に対し、被告人の検察官に対する自白および検察官に対する供述を録取した録音テープの内容たる自白が、被告人の取調に当つた司法警察員の拷問又は強制に由来する不任意性のものであるとの事実を肯認すべき証拠はないとして弁護人等の主張を排斥し、特に、一審判決が任意性に疑があるとした司法警察員に対する被告人の供述調書および録音テープもその内容自体や、証人木下京一等多数の証人の証言等に徴し、任意性を缺くものとは認められないとし、自白の信用性、真実性についても、自白の裏付けとなる数多くの間接事実、補助事実を認定挙示し、それらと自白内容の符合することを理由に、自白の真実性、信用性にも疑がないとして事実誤認の主張を排斥し、一審判決の事実認定を維持し、ついで二において、別件逮捕、不当長期勾留、弁護人選任妨害、さらには違憲の論旨及びこれを理由とする自白の証拠能力の缺如等の論旨に対し、事実上ないし法律上の判断を示して弁護人等の主張を斥け、さらに 三において、量刑不当に基づく職権破棄を求めた弁護人の要請に対し、その必要はない旨説示している。

(四)  上告審判決(以下差戻判決という)の要旨

右旧二審判決に対し、被告人から上告の申立がなされた結果、上告審である最高裁判所第二小法廷は昭和四五年六月一二日、一三日の両日にわたり、双方の弁論をきいた上、同年七月三一日次のような理由で「原判決を破棄する。本件を広島高等裁判所に差戻す。」との判決を言渡した。即ち、本件強盗殺人事件をめぐつては他に若干の重要な論点もあるが、審判の核心をなすものは、本件犯行の外形的事実と被告人との結びつき如何であり、右結びつきに関し、直接役立つ物的証拠は発見されておらず、その直接証拠は被告人の捜査機関に対する自白およびこれに類するもののみであると前提し、

(1)  まず、旧二審判決が被告人の検察官に対する供述調書のほか、司法警察員に対する供述調書の記載内容ならびに録音テープ、図面、手記の存在及びその内容、自白のなされた状況に基いて被告人の自白を信用出来ると認めた点について、被告人の捜査機関に対する各供述調書を見ると、詳細で、且つ、迫真力を有する部分もあり、また、犯人でなければ知りえないと思われる事実についての供述を含み、さらに、客観的事実に符合する点もなしとしないのであるが、他面、供述内容が、取調の進行につれてしばしば変転を重ね、強盗殺人という重大な犯行を自供したのちであるにかかわらず、犯人ならば間違えるはずがないと思われる事実について、いくたびか取消や訂正があり、また一方、現実性に乏しい箇所や、不自然なまでに詳細に過ぎる部分もあるなど、その真実性を疑わしめる点も少なくない。供述中には、終始不動の部分もあるが、それは主として捜査官において本件発生当初から知つていたと思われる事実についてのものであり、はたして、被告人のまぎれもない体験であるが故に動揺を見せなかつたのか、捜査官の意識的、無意識的の誘導、暗示によるものであるのか他の証拠と比較して軽々に断じ難い。そのほか、被告人の手記、手紙、和歌等については旧二審判決のごとく一義的に解釈することには問題があり、さらに自白がなされた状況に関する証拠も明確を缺くところが多く、結局、供述調書の記載自体に徴し、あるいは関連証拠等によつて、本件犯行についての被告人の自白には信用性、真実性が認められるとした原審の判断は肯認し難いとし、

(2)  さらに進んで、旧二審判決が多くの間接事実、補助事実を認定挙示し、自白の内容がそれらと符合するが故に自白の信用性、真実性に疑がないとした点について、そのうち最も重要な六つの点即ち、

(イ)  被告人が本件発生の時期の前後に亘り、当時の居住場所である大阪市内天王寺公園に居なかつた事実。

(ロ)  被告人が本件発生の日の数日前に仁保近辺において二人の知人(三好宗一、向山寛)に姿を見せた事実。

(ハ)  被告人が本件犯行前数日間徘徊した経路として供述した内容には、当時、被告人が現にそのように行動したのでなければ知りえない情況が含まれているかに関して旧二審判決の挙示した

(1)  宮野新橋の石川松埜経営の菓子店

(2)  堀駅付近のルーフイング葺の小屋

(3)  三谷川橋際の散髪屋の前の店

(ニ) 被告人は、山根保方の被害品と認められる国防色の上衣を所持していたか。

(ホ) 犯行現場に遺留されていた藁繩は、藤村幾久方の農小屋から持ち出されたものであることが、被告人の自供に基づいて判明したか。

(ヘ) 被告人が本件発生の時期において所持、着用していた地下足袋は裏底に波形模様のある月星印の十文半若くは十文七分のものであつたか。

以上(イ)乃至(ヘ)の事実はいずれも証拠上確実であるとはいい難く、これによつて被告人を本件犯行の犯人と断定することができないのはもちろん、旧二審判決の如く、これを被告人の自白の信用性、真実性を裏付ける資料とすることも困難であると説示し、結局本件記録にあらわれた証拠関係を検討すれば、本件犯行の外形的事実と被告人との結びつきについて、合理的な疑を容れる幾多の問題点が存し、旧二審判決がその説示するような理由で、本件犯行に関する自白の信用性、真実性があるものと認め、これに基づいて本件犯行を被告人の所為であるとした判断は、支持し難い。されば、旧二審判決には、いまだ審理を尽さず、証拠の価値判断を誤り、ひいては重大な事実誤認をした疑が顕著であつて、このことは判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められるというのである。

そこで当審は、前記各控訴趣意書や答弁を中心に記録を検討し、特に最高裁判所の差戻判決の指摘する前記六点を中心に、さらに検証、証人尋問、書証、物証の取調など審理を尽した結果、次のような判断に到達したので、以下順次これを説示する。

法律点の論旨について

第一、控訴趣意の大意

一審判決は、本件強盗殺人事件(以下単に強殺事件ともいう)の証拠として被告人の検察官に対する供述調書七通および検察官採取の録音テープ三巻(以上いずれも自白)を掲げているが、これらは違法な別件逮捕勾留中弁護人の選任権を妨害し、かつ、捜査官による強制、拷問、脅迫の影響下に作成、採取されたもので、かかる憲法違反の重大な違法手続により収集された自白は証拠能力を欠くというのである。

第二、捜査の経緯

そこで以下論旨に対する判断を示すこととするが、その前提として、強殺事件発生以来その犯人として被告人が起訴されるに至るまでの捜査経過を記録並びに関係証拠にてらし調査するのに、その概要は左のとおりと認められる。

(一)  事件発生から被告人逮捕に至るまで

(1)  昭和二九年一〇月二五日夜から二六日早朝にかけて本件強殺事件が発生し、同日午前通報をうけた警察は怨恨説および物盗り説の両面から捜査を進め、物盗り説からの容疑者として土地勘を有し、窃盗の前歴のある者、兇暴性のある者等の条件にそう約一六〇名をリストアツプした。

(2)  右リストの中に被告人の名前もあがつていたが、間もなく被告人が最近帰郷していないということで一応被告人に関する捜査は打ち切られた。

(3)  同年一二月二四日怨恨説による被疑者として山根保方隣家の須藤友一が逮捕、勾留されたが、翌三〇年一月一五日釈放された。

(4)  その後は物盗り説の線で捜査が進められ、右(1) の容疑者リストのうち行方不明の者についてアリバイを捜査し、その判明したものについて順次容疑を消していつた。

(5)  しかし被告人はいぜん行方不明であつてそのアリバイ確認ができなかつたところから、昭和三〇年四月一一日、被告人が昭和二八年農事試験場で窃盗したとの被疑事実で逮捕状を請求し、その発付を得、強殺事件の重要参考人の含みで全国に指名手配した。

(6)  同年七月一五日右農事試験場の事件につき被告人のアリバイが明白となつたので、昭和二七年七月中旬に発生した杉山正二方への住居侵入、窃盗未遂の事実につき逮捕状を請求し、その発付を得、全国に指名手配をした。

(7)  右指名手配の当時捜査当局が被告人に関し得ていた主たる資料としては、被告人が仁保村出身者で窃盗の前科があることのほか、被告人が友人の木本毅に「杉山正二方に入つたとき電燈がついて顔を見られたら主人をばらしたかも知れない」旨話し兇暴な放言をしていたこと、被告人が昭和二八年四月下旬家出して郷里を出、兵庫県方面で働いていたこと、昭和二九年一一月中頃山口市内向山製材所に立ち寄つたという聞込みのあつたこと等であり、被告人が逮捕されるまでそれ以上の資料は何ら得られなかつた。

(8)  昭和三〇年八月下旬ころまでには前記(1) の容疑者リストのうち行方不明の者は被告人のみとなりその余の者のアリバイは一応すべて成立した。

(9)  昭和三〇年九月末頃天王寺警察署所属平井勝已巡査は当時大阪市天王寺公園内でバタヤ生活をしていた被告人をマンホール蓋の窃盗事件で取調べたが、その際被告人は本籍、氏名、生年月日をいつわり山根保と称していた。

(10)  同年一〇月一九日平井巡査は被告人と当時同棲していた福井シゲノから被告人の転出証明書を見せられて被告人の氏名、本籍、生年月日を知つたので念のため前科の有無を調べたところ、全国指名手配中であることを知り、直ちに被告人逮捕に赴き、同日午後〇時三〇分大阪市天王寺区堀越町一〇五番地先路上で被告人を逮捕し、天王寺警察署に連行して身柄を同署留置場へ収容した。

(二)  被告人逮捕後、右逮捕事実で起訴されるまで

(1)  被告人は、右逮捕当夜留置場内で同房者吉川梅治らに「窃盗未遂でつかまつたが、三人の口と六人の口がばれんかなあ、向こうのでよう次第によつては言わにや仕様がない、今度はちよつと帰られん」と話し、このことは翌一〇月二〇日吉川から天王寺警察署員に通報された。

(2)  一方被告人逮捕の知らせを受けた山口警察署では木下京一警部補、山口信巡査部長を身柄引取りに出発させ、両名は翌二〇日午前一〇時四〇分天王寺警察署において被告人に対し杉山正二方への住居侵入、窃盗未遂の逮捕状を示して弁解録取書を作成し、右事実についての自白調書を作成した。なお弁解録取書には「弁護人のことはよく分つています。今は何とも申されません」と記載されている。

(3)  同日夜右両名警察官は被告人を護送して大阪を出発し、翌二一日朝山口警察署留置場第六房に収容し、被告人は同日午後身柄付きで送検されて検察官の弁解録取書が作成されたが、これには「父が会つてくれるなら父と相談して弁護人のことは考えます」と記載されている。翌二二日右逮捕事実により勾留請求がなされ、山口地方裁判所で裁判官の勾留質問後勾留状が発せられたが、右勾留質問の際勾留通知先として「父親岡部繁一にお願いします」とのみ供述し、弁護人のことには一切触れていない。そして同日午前一〇時四〇分勾留状の執行をうけた。

(4)  被告人は翌二三日から二五日に至る間木下警部補(主任)等により強殺事件当時の被告人のアリバイ捜査の一環として、昭和二八年四月被告人が郷里を出てから逮捕されるまでの生活状態について取調をうけたが、その間終始帰郷の事実は否定していた。

(5)  一〇月二六日藤山幸男巡査部長により勾留事実につき被告人の経歴、職歴、家族等に関する調書が作成され、同月二九日山口区検察庁で同事件につき検察官の取調べをうけ供述調書を作成されたが、これまでの取調方法は公正で紳士的であり、何ら不当な点はなかつた。

(6)  一〇月二六日友安敏良警部(係長)、津森精人巡査部長、熊本清巡査の三名は大阪市に出張し、同月三一日までの間被告人のアリバイの有無について裏付け捜査を行つた。その結果被告人が昭和二九年一〇月中に日本血液銀行に売血に行つた形跡がなく、また天王寺公園で被告人の近くで生活していた山本高十郎から被告人が一〇月頃大阪にいなかつたことがある旨の聞きこみを得、さらに吉川梅治から前記(1) の話を聞いたほか、前記(一)(9) の窃盗事件の参考人片山秀雄等を調べ、一一月一日山口警察署に帰つた。

(7)  右大阪出張の間被告人の取調は行なわれず、専ら被告人が帰郷した事実があるか否かについて仁保村近辺を中心に聞き込み捜査が行われ、三好宗一から被告人と豊栄製材所で会つたとの情報を得た。

(8)  検察官は一〇月三一日山口地方裁判所に逮捕、勾留事実で被告人に対し公訴を提起し、起訴状謄本、弁護人選任に関する通知および照会書は一一月四日山口警察署署長に送達された。

(三)  起訴後強殺事件に関する最初の自白調書が作成されるまで

(1)  一一月二日から再び被告人の取調が開始され、木下主任らは前記大阪におけるアリバイの調査により得た資料と被告人の供述の矛盾そごする点を中心に昭和二八年出郷以来の詳細を質問し、これに対し被告人はあいかわらず血液銀行に毎月二回以上行つていて大阪を離れたことはないと否認した。

(2)  そこで木下主任らは一一月四、五日頃から一一月一〇日に至るまで被告人に対し人間として真実を述べるよう説得したり、天王寺警察署留置場で同房者に語つた内容について問いただしたりし、血液銀行に一〇月中行つていない以上大阪を離れて山口に帰り重罪を犯しているのではないかもしくは本件を表に出し山根の六人殺しをやつたのではないかときびしく追及した。

(3)  その間被告人は一一月七日には一〇月中血液銀行に行かないことを認めたものの依然として出阪の事実は言わず、一一月九日には再び血液銀行に行つていた旨前の供述をひるがえす一方、明日必ず真実を述べると約束し、一一月一〇日再び明日真実を話すから今日は留置場に入つて考える旨申し出た。

(4)  なお、一一月八日、九日の両日にわたり木下主任は被告人が昭和二八年四月山口を出て以来逮捕に至るまでの生活状態についての供述調書を作成し、また一一月八日に前記起訴状謄本、弁護人選任照会書が被告人に交付され、同日被告人において右照会書の回答欄に自筆で「唯今は自分は金が無いため裁判所で弁護人をお願い致します」と書き、右書面は一一月九日裁判所に送付された。

(5)  山口地方裁判所は一一月八日右起訴事件の公判期日を一一月二九日と指定し、被告人に対する公判期日召喚状は一一月一〇日山口警察署署長に送達された。

(6)  一一月一〇日夜木下主任は被告人の挙措態度から自殺のおそれがあるとみて、取調べを中止した後は留置場に看守二名を増員して不寝番をたて翌朝まで監視を続けた。

(7)  一一月一一日午後二時三〇分頃被告人からの申し出に基づいて木下主任らが被告人の取調を開始したところ、大阪を出て山口地方に来たことは供述したが、それ以上のことは木下主任らの「主任さんにおすがりするよりほかにどうにもならん」「やつた行為そのものはやはりお断りしなくちやいけない」とか「せつかく今そこまで話したんじやから今ついでにいうて」等の説得、追及にもかかわらず供述しようとせず、取調を一旦中止し、その夜午後八時頃から再び取調を始めたところ、「牧川に行つて強盗をした」「山根の家をおそつた」等ほぼ本件犯行をにおわすような供述をするに至つた。そこで更にむすび山から山根方へ行つた道順につき追及をはじめたところ、「命を早める」とか「もう一日安心させる」「はあ休まにややれん」「かんにんして明日話す」とか言つて供述を拒否する態度に出、なおも「今日はそのことだけはかたをつけにやいけんで、いずれ話をせにやけりやいけないんだから」等の説得を続けるも「必ずあした話す」と約束して結局その日は午後一一時半頃までで取調を終つた。

(8)  翌一二日も取調べたが、結局前夜同様供述を拒否し、「留置場へ入れて」という発言が何回もあつて、なお取調が続いた後ようやくその日の取調を終えた。

(9)  翌一三日には取調がなく、一四日には被告人の申し出により取調が開始され、友安係長も加つたところ、概略次のとおり、すなわち、「このたびの仁保の山根の六人殺しというような事情について自分が大阪を出てからこつちへいつ帰つて山まで行つた話をして、山根の家のどこから入つてどこからどういう物を持つて出たことにつきどうしてもいわにやならんことになつており、こないだからその気になつて一等役者みたいに犯人になつたろうと思つて供述して来たが、山根のうちそのものが分らんのでこれ以上話ができない」と供述し、結局木下主任は「この話はてんから問題にならんじやないか」と、友安係長は「始めから考え直しなさい。そりやもうそういう話だつたらいくら聞いたところでおんなじことだ」と言つてその日の取調を終えた。

(10)  同日検察官は山口地方裁判所に対し先に指定された公判期日を「当職さしつかえのため」との理由で変更されたい旨請求し、即日同裁判所は被告人に対し右期日変更についての意見を求め、一六日被告人は「意見はありません。」と自署した回答書を提出したので、裁判所は一七日公判期日を変更し、期日は追つて指定する旨決定し、一八日右変更決定は山口警察署署長に送達された。

(11)  被告人は(9) の否認後しばらくこれを維持し、その間一一月一六日にはマンホール蓋窃盗事件につき供述調書が作成され、また木下主任ら警察官の被告人に対する人間性にたち帰つて真実を話せとの説得が続けられた。

(12)  一一月一八日ごろから被告人は再び仁保付近の徘徊状況、逃走経路等につき供述をはじめ、一一月二一日までには侵入口、逃走口、兇器を含めて犯行状況をほぼ全面的に供述するに至り、一一月二二日には強殺事件について最初の自白供述調書が作成された。

(13)  一一月二日から一一月二二日までの二一日間のうち被告人は少くとも一八日間取調をうけ、そのうち少くとも八日間は夜間取調であり、その取調開始時刻は、午後八時か九時頃からで、終了時刻が午後一〇時ないし一一時半頃までのものがほとんどであり、その取調方法は常に二人ないし三人の警察官がこもごも尋問、説得し、あるいはリレー式に前の警察官に述べた供述を後の警察官にくり返し供述させるというものであつた。

(四)  最初の自白調書作成後強殺事件について起訴されるまで

(1)  一一月二三日からも被告人の取調はほとんど連日行われ、一二月三一日まで取調がなかつた日と思われるのは四日間位であり、このうち夜間取調もひんぱんにあり(明らかなもの一八回)、徘徊、逃走経路、国民服、犯行状況のほかとくに被告人の着衣の処分先について取調が行われた。

(2)  被告人は一二月八日「明日必ず真実を話すから休ませてくれ」と言つてその翌九日「今迄述べたことはすべてうそである」旨否認したことがあり、また一二月一六日徘徊経路について当初の自白と全く異る供述をし、着衣の処分先については何回も供述を変更し、熊坂峠で焼いたと言つたり、長谷峠で焼いたと言つたり、平川に流したと言つたりその都度警察官において被告人を連行しその指示する場所を捜索したが、遂に着衣は発見されなかつた。なお、右期間中作成された供述調書は八通でいずれも自白調書である。またこの期間の取調方法も前記(三)の(13)と全く同様であつた。

(3)  警察官は右被告人取調のほか、大阪アリバイ関係の参考人中田イト、山本高十郎等の取調を行なうとともに、一二月一日頃類似わらなわの所在について藤村幾久方に、一二月三日国民服上衣の存否について木村完左方に、一二月八日頃地下足袋販売店の所在について名古屋駅裏の小崎時一方に、一二月二七日から三〇日にかけ被告人が寝た場所等につき堀駅付近にそれぞれ係官を派遣し、被告人の供述の裏付け捜査を行なつた。

(4)  被告人は一二月二日歯痛により歯科医師糸永洋の、また一二月二〇日下痢により内科医師清水キミヤの各診療をうけているが、その他に治療をうけ、薬を服用した形跡はない。

(5)  一二月一〇日検察官は被告人に対しマンホール蓋窃盗事件につき公訴を提起し、同起訴状謄本、弁護人選任に関する照会並びに通知書は同月一三日山口警察署署長に送達され、被告人は一二月一八日「私は貧困して現在金がないので裁判所で弁護人をお願い致します」との回答をした。なお右事件については前記住居侵入、窃盗未遂事件と併合して審理する旨の併合決定が一二月一五日されている。

(6)  一二月三一日被告人の理髪、着がえ(警察官からのシヤツの差し入れ)が行なわれ、被告人はその心境を記した短歌を提出した。

(7)  昭和三一年に入つてからも警察官による被告人の取調べは続行され、一月八日、一五日、二三日に友安係長による供述調書が作成され、また徘徊経路に関する裏付け捜査が行なわれた。なお、これと並行して一月一一日頃から検察官検事中根寿雄は前記山口警察署二階の取調室で検察事務官のほか山口巡査立会の上被告人の取調を開始した。

(8)  その後右検察官は一月一三日、一四日は午前一〇時頃から午後七時前まで、二七日は午後三時頃から午後七時頃までいずれも被告人を取調べて供述調書(いずれも自白)を作成し、被告人の身柄は二月一日山口警察署から山口刑務所に移監されたが、その直前被告人は友安係長の子供から菓子をもらつたお礼と心境を記した子供宛の手紙を出している。

(9)  刑務所移監後は家族との面会も自由で、被告人の姉、母等がひんぱんに訪れ、(二月一六日、二月二〇日、二月二五日)その際被告人は私選弁護人の選任についてすすめられたのにその都度起訴になつてからでよい旨答えている。

(10)  右検察官は刑務所内でも午後五、六時頃から二、三時間被告人を取調べ、二月七日、八日、一五日、一九日にそれぞれ供述調書を作成したが、その後三月二二日は強殺事件全般について被告人の供述を録音することにつき被告人の同意を得て刑務所内で午後一時から午後五時ごろまで三巻の録音テープを採取し、翌二三日藤村幾久方農小屋から出根方までの道順、山根方での犯行の状況につき検証を行ない、検証調書が作成された。

(11)  検察官は三月三〇日山口地方裁判所に強殺事件につき公訴を提起するとともに、同事実についての勾留状発付を求め、裁判官は被告人を勾留質問(否認)のうえ勾留状を発付し即日執行されたが、右起訴状謄本、弁護人選任通知書も右勾留質問の機会に送達された。

(12)  山口地方裁判所は三月三一日強殺事件に前記住居侵入、窃盗未遂事件を併合して審理する旨決定し、四月二日強殺事件等につき国選弁護人として竹内俊平弁護士を選任したが、これは被告人の強殺事件についての弁護人選任に関する照会に対する回答(貧困のため弁護人を裁判所で選任してくれと記されている)が裁判所になされる(四月七日)前であつた。

(13)  その後被告人は四月二〇日弁護士小河虎彦、小河正儀を弁護人に選任する旨の選任届を裁判所に提出し、同日竹内弁護人は解任された。

以上の事実が認められる。

右認定事実中(二)(1) 、(三)(2) 、(7) 、(9) の認定についてはとくに被告人、弁護人において強く争つているところであり、また趣意に対する判断上も重要であると思われるので、認定理由を説明しておく。

(イ)  (二)の(1) すなわち、被告人が逮捕直後天王寺署の同房者に対し「三人口」とか「六人口」とか話した事実について、被告人は一審以来右事実はなかつた旨供述している。しかし、被告人の言葉が一語一句間違いなく正確に同房者に伝えられたかどうかはともかく、被告人が全く話さなかつた虚偽の事実を吉川梅治ら同房者が山口署員でなく天王寺署員にわざわざ申告する理由は見当らず、被告人が入房当時逮捕事実以外に何らかの重大な犯罪をおかしていて或いは虚勢を張つて重大犯罪をおかしているように装い同房者にそれらしい話をもらすことは十分考えられ、この点に関する吉川梅治らの証言は信用できる。もつとも右言葉の意味は三人組或いは六人組による犯罪というのであるか、三人殺し、六人殺しという意味であるか必ずしも明らかでなく、このときの被告人の言葉がいわゆる自白にあたるか否かは確定できない。

(ロ)  (三)の(2) すなわち木下主任らが被告人に対しいわゆる本格的取調を開始したのが、一一月四、五日ごろからであるか、或いは検察官主張のように、一一月七日からであるかについて、本件証拠上は必ずしも明確でなく、ただ証二七号(捜査日誌)一一月四日の取調中の態度の項に「天王寺警察署において殺しのことを云々しているが、このようなことは全然語らず」と記載されていて、この日にすでに「六人殺しのことを天王寺署でも言つているではないか」と追求したともみられるし、一一月五日の取調中の態度の項に「人格的人間性について説明し真実性ある人間として真の声を聞かすよう説得し、被告人も感涙しあるいは神妙な態度であつた」と記載されていて、強殺事件についての取調が本格的になつてきたことをうかがわせるものがあり、また(二)の(8) のごとく、一一月四日に山口警察署署長にまで送達された起訴状謄本が(三)の(4) のとおり一一月八日に初めて被告人に交付されていること、警察官は当時大阪出張の結果および一一月二日からの復習的取調の結果から被告人の強殺事件の容疑についてかなり強い心証を得ていたとうかがわれること等諸般の状況にてらし、強殺事件についての本格的取調が一一月四、五日ごろからであつた蓋然性が強いと認められる。もつとも右本格的というのが強殺事件の被害者や件名等を明示して山根の六人殺しをやつたのではないかと追及した取調であつたのか、単にアリバイに関する被告人の供述の矛盾を追及し山口に帰つて何か悪いことをしたのではないかというように取調べたものであるかは必ずしも明らかでない。取調警察官はいずれも被告人が自白するまで強殺事件の件名、内容を表に出さなかつたと証言し、被告人も「何で取調をうけているのか分らなかつたので同房者に最近大きな事件はなかつたかなど聞いてはじめて仁保の六人殺しを知つたのである」と供述し、また警察官による録音テープ中一一月一一日の分と考えられる一巻ないし七巻の警察官の質問には強殺事件を表に出したものが全く存在しないので、これらをあわせ考えると、その頃の取調では強殺事件の名前は終始表に出さなかつたようにも思われる。しかし他方アリバイの追及自体強殺事件発生の日時を言わなければ意味をなさないし、また単に何か事件を起したのではないかとだけ追及する取調というものが実際上可能であるか疑問であるし、被告人はこの点で「仁保の六人殺しを一口言えと言つて責められた」と供述し、また警察官録音一〇巻で(三)の(9) のように「このたびの仁保の山根の六人殺しというような事情についていわにやならんことになつていますが……」と供述していることからみると、本格的取調に入つてからは大阪を出仁保に帰つて六人殺しをしたのではないかと追及したとも考えられる。或いは当初は強殺事件の名を表に出さず中途から名前を出して取調べたものとも考えられ、そうすると、被告人の矛盾したような供述(一方では事件名を出して責められたと言い、他方では事件名が分らなかつたと言う)も時期を異にした取調状況を言つたものとして理解できなくはなく、被告人が事件名を聞いたという同房者が西村定信とすると同人が山口署留置場に入監したのは一一月五日夜であるから、少くとも同日以前の取調では事件名は表に出なかつたこととなり、一一月六日以降仁保の六人殺しをしたのではないかとの追及が始まつたものとみられなくはない。ところが、西村定信は被告人から「何か大きな事件はなかつたか」と聞かれたのでなく、仁保の六人殺しの日はいつだつたかと聞かれただけである旨証言しているので、この証言が真実とすると、被告人の何の事件か分らなかつたとの供述自体その信用性が疑わしいこととなる。結局本件証拠上は本格的取調における質問の具体的内容についてこれが明確となつていないといわざるを得ない。

(ハ)  (三)の(7) すなわち被告人が本件犯行をにおわす供述をしたのが一一月一一日であることは警察官録音テープ一巻ないし七巻および捜査日誌の同日の項の記載により認められる。被告人は自白の日時を一一月一四、五日と供述主張するのであるが、旧二審公判では一一月一〇日であるとも供述していて、右一四、五日と主張する根拠は必ずしも明白でなく、一一月一一日に採取された警察官録音テープ一巻ないし七巻の内容と明らかに食い違つている。もつとも弁護人らは右一巻ないし七巻が一一月一一日以降に採取されたものと入れ替えられていてその全部が同日に採取されたものでないと主張するのであるが、警察官による録音採取が一一月一一日から始まつたものであることは当審証人谷林清士の証言するところであり、他に録音の始まつた日が別の日であることをうかがわせる資料が全くないから、右証言を真実と認めるほかなく、そうすると前記一巻ないし七巻の内容がその余の録音テープの内容或いは被告人の供述調書の記載内容と対比して最も初期のものと推定され、かつ一巻ないし七巻の中に明らかに他の日に採取されたと認められるものが含まれておらず、その内容において合理的な説明をなしうる程度に継続性、統一性を有するなら、一巻ないし七巻は一一月一一日に採取されたものと認められるので、以下この点について検討する。

先ず一巻の内容は、「大阪を二回出たことがあり、一回目は一〇月五、六日頃広島まで行き、二回目は佐波郡から仁保を通つて小郡から大阪に帰つた」というもので、二回目いつ大阪を出たかについて答えようとせず、ついで録音中断があつて、はいていたズボンの色についての応答で終つている。

次に二巻は「手荷物はないんか」との質問で始まり、ついで「二へん目大阪をいつ出たんか」との質問になつてまた被告人は答えず、ただ二回目大阪を出た目的のみ答えて終つている。

三巻は木下主任の「崇高な心になれ」という説教に始まり、一とき休めということで雑談になり、「そいじや約束したでよし」という山口巡査の発言で録音中断し、次に「パンは食べたか」の問答後再び録音中断し、その後「心を落ちつけて話しなさい」「話します」という問答から始まつて、「二三日大阪を出、五日の晩仁保におり青かんし、牧川へ行つて強盗をやり、二八日大阪に帰つた」「山根方に行つて金をにぎつて大阪に帰つた」「三田尻から矢田、東園、妙見、仁保の製材所を経て二六日の日に山根の家をおそうて仁保駅の上側を通つて宮野にまわつた」との供述があり、木下主任らから「山根方に何があつた、何を持つて出た、入るところはどこ、出たところをどこと話さなくては」と聞かれ、沈黙のまま終つている。

四巻は山口巡査の「ようのう話してくれたのう」「あの仏に対して君が謝らなくちやいけない」という言葉で始まり、「どこから入つた」との質問に被告人が全く答えず、山口巡査、木下主任の「それだけ言え」という執拗な説得のあと、被告人の「口から出したらいけんのじや」等の答えがあつて終つている。

五巻は「のうもうひと押しじやろうが」との木下主任の説得に始まり、大阪を出た状況、そのときの服装(地下足袋を含む)、防府に下車してからの状況、仁保に入つてむすび山に行つた状況についてのくわしい供述の後、「ほんのひとつ調子でちようなを持つとつたんや、事の成り行きがあねいなつた」との発言があり、むすび山からどう行つたかとの質問でまた答えがつまり終つている。

六巻は「そこまで言つて途中で止まつちやいけんわなあ、話をせにや」との説得が続いて録音が中断し、「命がちぢまる」「どうも統一がとれん」とかため息が続いて再び録音中断し、「房に入つて地図「そいじや約束したでよし」という山口巡査の発言で録音中断し、次に「パンは食べたか」の問答後再び録音中断し、その後「心を落ちつけて話しなさい」「話します」という問答から始まつて、「二三日大阪を出、五日の晩仁保におり青かんし、牧川へ行つて強盗をやり、二八日大阪に帰つた」「山根方に行つて金をにぎつて大阪に帰つた」「三田尻から矢田、東園、妙見、仁保の製材所を経て二六日の日に山根の家をおそうて仁保駅の上側を通つて宮野にまわつた」との供述があり、木下主任らから「山根方に何があつた、何を持つて出た、入るところはどこ、出たところをどこと話さなくては」と聞かれ、沈黙のまま終つている。

七巻は「一日だけ安心させる」との被告人の発言に始まり、「仁保のどことどこに行つた」という質問に答え、「どつちから行つてどう出た」との質問には全く答えず、結局「一日だけ迷うてみたい」との発言で録音中断し、右中断後は「あしたになつたら話す言つたな、あすこの山からおりたところから話しなさい」との問に始まつていて明らかに一日後の録音であることを示している。

以上概略その内容を摘記したところを通覧すれば、その内容は明らかにその余の録音内容と対比して最も初期のものであり(ことに二回大阪を出たこと、逃走経路が仁保駅の上を通つていること、むすび山を降りてから山根方へ行く道を答えていないことは初期の供述であることをうかがわせる)、しかも各巻の最終と次巻の冒頭に連絡があり、内容は継続していて統一性もある。もつとも一一月一一日の取調内容が残りなく全部採取されたものとは認め難く、採取もれのあることは否定し難いが、だからといつて後日録音のものを意図的に前につぎたし編集するといつた操作をしているとも認め難い。たとえば一巻に被告人が佐波郡を通つた話が出て、その後その話は一二月一七日付供述調書まで出ていないが、「二回目に出たとき佐波郡に入つて」と明らかに被告人自ら一個の文章で供述していて、二回出たことが最初の供述と認められる以上同じ文章の中の佐波郡の供述を後日の分であるといえないこと明白であり、また「きべまで行つたんか」との質問はなく、「きべまで行つたんです」と被告人自ら言つたことが一巻の録音を聴取すれば明らかである。さらに一巻末の服装に関する問答は二巻の冒頭とつながつていること前記内容にてらし明らかで、ただこの部分はある程度質問応答が録音上省略ないし採取もれされているだけと考えられる。また一巻ないし七巻の中には被告人がすらすらよどみなく供述している部分とひどく言いしぶり、ため息ばかりといつた部分とが交互に出て来て一種の統一性を欠いているといえないことはないが、右部分を仔細にみるとすらすら供述しているのは、着衣、道順、逃走経路等であり、しぶつているのは二回目大阪を出た日時、むすび山から山根方への道順、侵入口等であり、質問事項のいかんによつて供述態度の変化するのは不自然といえない。次に三巻と五巻に柱時計の音が録音されており、弁護人主張のごとく両方とも一〇の音に聞えるなら、どちらか一方は明らかに他日のものといえるのであるが、三巻の柱時計の音は検察官主張のように九の音に聞えないことはなく、右音が聞こえるのが三巻の再度の録音中断後取調べを再開して間もなくであり、六巻の中の被告人の「八時になつたら出ようと思とつた」との供述にてらし右音が九時を示すものと認められ、三巻と五巻の内容が別の日に録音されたものであることを示すほど明らかに食い違つているとはいえない。結局以上検討したとおり一巻ないし七巻については一一月一一日に録音されたものと認められるから、弁護人らの主張は採用できない。

(ニ)  (三)の(9) すなわち一一月一四日に被告人が否認したことがあるかの点について、この問題は結局警察官録音テープ一〇巻が一一月一四日に採取されたものであるか否かというに帰するのであるが、この内容は前記(三)の(9) に摘記したとおりであつて、これによると、被告人は強殺事件の犯行をほぼ認めたが、いまだ山根方への侵入経路、侵入口を供述していない段階に否認したことが明らかで、この段階はまさに一巻ないし七巻(その内容は右(ハ)の概要のとおり)および翌一二日に録音したとみられる八巻、九巻(その内容は七巻の続きで、むすび山から山根方にどう行つたかについて答をしぶり結局言わないで取調を終つている)の内容の続きをなすもので、一〇巻中に「きのうお休みのときだろうと思つたけど」との供述にかんがみると、一二日の翌日一三日(日曜)が取調べを休んだ日で、一〇巻が一四日に採取されたことが自から明らかである。

第三、弁護人選任権侵害の主張に対する判断

(一)  この点に関する論旨は要するに、被告人は住居侵入、窃盗未遂事実で逮捕されて以後弁護士の名前をあげて弁護人依頼の申し出をしたのに捜査官は全くこれに取り合おうとしなかつたものであり、また右事実で起訴された後被告人は国選弁護人選任を希望する書面を差し出しているのに、裁判所は強盗殺人事件についての起訴があるまで選任しようとせず、また検察官が第一回公判期日の変更申請をし、裁判所がこれを認めたのは、国選弁護人の選任をことさら遅延させその選任権を侵害したものであつて、これら弁護人依頼権、選任権の侵害は憲法三四条、三七条三項に違反するというのである。

(二)  先ず被告人が捜査段階において私選弁護人を依頼したい旨捜査官に申し出たことの有無について検討するのに、(1)  被告人は前記第二の(二)の(2) 、(3) のとおり逮捕勾留された段階ではまだ私選弁護人のことは捜査官にも裁判官にも申し出ていないこと、(2)  被告人は第二の(三)の(4) のとおり昭和三〇年一一月八日付で、同(四)の(5) のとおり同年一二月一八日付で、同(四)の(12)のとおり昭和三一年四月七日付でそれぞれ裁判所からの弁護人選任に関する通知および照会書の回答欄に「貧困のため国選弁護人をお願いします」との趣旨の回答をしていること、(3)  被告人は同(四)の(9) のとおり刑務所に面会に来た姉や母に対しそのすすめにもかかわらず私選弁護人の選任は起訴になつてからでよい旨しばしば述べていることの諸事情に照らすと、旧二審証人中根寿雄の「被告人の取調べ中誰からも弁護人選任の申し出も相談も受けたことはない」との証言、当審証人木下京一の「被告人は国選弁護人を頼むということは言つていたが、私選弁護人を頼むとは言つてなかつた」との証言はいずれも信用でき、被告人の「小河弁護人を頼みたいとたびたび警察官に言つたが、警察はお前は金がないのに私選を雇うとはもつてのほかだと言つて書類を出してくれなかつた」旨の供述は信用できない。所論は、いまだ強殺事件について取調をうけることを知らなかつた逮捕、勾留の当初或いはすでにやむなく自白していた刑務所移監後における被告人の言動からは、強殺事件について本格的取調が始まつたころの被告人の意思を推定することはできないと主張するのであるが、勾留の当初はともかく、検察官の取調を受けていてまだ起訴されるか否か定まつておらず、ことに検察官において起訴すべきか否か迷つているようにさえうかがえる被告人の運命を決する最も大切な時期に、しかも被告人も元警察官としてそのことを十分了解していると思われるのに、面会に来ていた母や姉からすすめられても私選弁護人の依頼をしなかつたことにかんがみると、捜査段階において被告人にいかなる理由からにせよ私選弁護人を依頼するつもりがあつたものとは認め難く、右主張には賛成できない。

(三)  次に国選弁護人選任権侵害の有無について検討するのに、被告人が最初の起訴後である昭和三〇年一一月八日付で国選弁護人選任の請求をしているのに、翌三一年四月二日に至るまでこれが選任を行なつていないことは前記第二にてらし明らかで、刑事訴訟規則一七八条三項に違反しているのであるが、捜査段階における国選弁護人の選任が認められていない現行法のもとでは、国選弁護人は公判段階における被告人の弁護活動にあたるため選任されるものと解せぜるを得ないから、通常第一回公判期日前に公判準備に支障のない余裕をもつて選任されれば被告人の防禦権は全うされるといい得、本件第一回公判期日は昭和三一年五月二日であるから、本件国選弁護人の選任をもつて、あえて憲法三七条三項に反するものとまではいうことはできない。もつとも起訴されることによつて被告人は検察官と対等の当事者たる地位を取得し、他の余罪について取調をうけていようといまいと右地位を失うことはなく、起訴の時点からその事実につき迅速な裁判をうける権利を有し期日の変更についても重大な利害関係を有するから、起訴事件についてもそのような決定がなされる事態が生じたときは被告人の正当の権利を擁護すべき弁護人の存在することが望ましく、ことに被告人が余罪について取調をうけているときは当初の起訴事件についての審理が遅延するおそれが多大であるからなおさら弁護人の早期選任が望ましいと考えられる。そうすると、山口地方裁判所が第一回公判期日の指定後も、その期日変更の申請をうけた際も、追起訴があつた際も国選弁護人の選任を行なわず、強殺事件の起訴後はじめて選任したのは妥当の措置とはいえない。なお所論は、期日変更の措置をとつたことをもつてことさら国選弁護人の選任を遅延させようとしたものであると主張するが、期日変更の有無にかかわらず国選弁護人は起訴後いつでも選任され得るのであるから、裁判所が期日変更したことをもつてことさら国選弁護人の選任を遅延させようともくろんだものとはいえない。

第四、任意性についての判断

(一)  この点に関する論旨は要するに、被告人は警察官により強制、拷問、脅迫をうけて自白したものであり、被告人の検察官に対する供述調書七通、検察官採取の録音テープ三巻はその影響のもとに作成、採取されたものであり、かつ、不当な長期勾留の後得られたものであるから、右自白は憲法三八条二項に違反するというのである。

(二)  そこで先ず警察官による強制、拷問、脅迫等任意性を疑わせる事実があつたか否かについて判断する。

(1)  被告人は一審以来当審に至るまで終始警察官よりはげしい拷問をうけたと供述し、その内容として、長時間正座させられ、体がしびれ小便が出ても分らんようになつたこと、かわるがわる打つ、蹴る、殴る、耳をねじまげる、鼻をはじく、投げ飛ばす、指の間に鉛筆をいれてねじあげる、頭をひもで後ろのズボンにくくりつけて頭をそらせる、顔を箒で逆なでする、正座した膝の上にのる、寒中にやかんの水を首筋にたらしうちわであおぐ、金だらいで冷やす等の暴行を加えられ、そのため歯ぐきから血が飲み切れない位出たり、頬の一方がよおけはれて青くなつたり、着衣が破損したこと、食事も満足に食べさせられず、昼食は晩に、晩食は夜中一二時頃に食べさせられ、幾晩も留置場に帰らせてくれなかつたこと等をあげている。

これに対し、被告人を取調べた警察官友安敏良、木下京一、山口信、熊本清、世良信正は、一審、旧二審、当審においていずれも「被告人の供述するような拷問を行なつたことは全くなく、任意性を疑われないよう十分注意した」旨証言している。

(2)  そこで被告人の右供述を裏付けるものとして提出された各証拠について順次検討する。

(イ)  一審証人熊野精太郎の証言(五の一六四六-五冊一六四六丁の意、以下同じ)。その要旨は、「原田正直らの山林詐欺事件の山口署員の調べをうけていたとき、被告人が、七、八名の刑事に連れられて取調室に入るのを見た。その際右部屋から三、四人のどなりつける声が聞え、『あいたた』とうなるような声が聞えた。机を叩くバタバタとする音や大声が聞えた。」というのである。しかし、当審証人森本英男の証言、熊野精太郎の司法警察員に対する供述調書抄本六通、検察官に対する供述調書抄本五通、三木一郎作成の送付書によると、原田正直らの山林詐欺事件で熊野が山口署に出頭した期間は昭和三〇年一〇月一七日から同月二二日までで二三日以後は山口署で取調を受けてないことが認められ、他方被告人は一〇月二一日山口署に引致されたばかりで、二二日には裁判官の勾留尋問を受けている段階であり、その頃の調べについては被告人さえ取調が紳士的であつたと供述しているのであるから、熊野の証言はおよそ信用できない。

(ロ)  一審証人広戸勝の証言(五の一六六四)。その要旨は「山口署で原田正直の詐欺等事件で調べを受けていたとき、二階の講堂の向いの一〇畳か一五畳位の部屋の取調室の中から二、三大きな声をされたのを聞いた。このようなことを聞いたのは一日だけである。」というのである。しかし当審証人森本英男の証言、広戸勝の司法警察員に対する供述調書抄本三通、検察官に対する供述調書抄本四通、同人作成の上申書謄本一通によると、広戸が山口署に出頭した期間は昭和三〇年一〇月九日から同月二三日までであり、以後山口署で取調を受けていないことが認められ、そうすると、(イ)のような被告人の取調状況と対比し広戸の証言も信用できない。

(ハ)  一審証人竹内計雄の証言(四の一五五八)。その要旨は「自分が昭和三一年三月頃山口署に勾留された翌朝被告人も留置されていた。そのとき被告人は相当弱つていて向つて右のこめかみが赤く血がにじんではれ上つていたので、私がどうしたのかと聞くと、何か訳のわからんことで毎日殴られたり叩かれたりして調べられている。何の目的で調べられるか分らんと言うので、お前六人殺しの容疑を知らんかと言うと、知らんと言うので、私はこんなところで頑張つているとやられるからうそでも早くはつきり言つて未決にまわれと言つた。私は二号房で被告人は四号房にいたが、その頃暴力団関係者が大勢入つていて、岡部、岡部と騒ぐので、被告人は八号房に変つた。深夜一二時頃か一時頃房へ帰つて来たのを見た。その後一、二ケ月して私が山口刑務所に未決で収容されているとき被告人に会つたが丸々と太つていて早く刑務所にまわつてよかつたとも言つていた。」というのである。しかし、竹内計雄の整理原票謄本二通、同人の勾留者整理原票謄本二通、同人の指紋票謄本、証三七号(留置人名簿)、三九号(留置人現在簿)によると、竹内計雄は昭和三〇年一〇月二七日職業安定法違反で山口署留置場第四房に収容され、同月二九日第三房に、同月三〇日第四房に戻され、一一月七日山口刑務所に移監されたこと、竹内は右勾留中一〇月二九日賍物罪で逮捕され、一一月九日公判請求されたが、一一月一六日釈放されたこと、竹内が刑務所に移監された被告人と会うことができた機会としては、竹内が傷害事件で逮捕され刑務所に勾留された昭和三二年一月一〇日から同月一九日までの間で、その他に両者が日時を同じくして勾留されていた形跡のないことが認められる。また、証三九号、当審証人守田満男の証言によると、被告人が第六房から他房に移つた事実がなく、また、一〇月二七日から一一月七日までの留置人は毎日一〇人足らずで暴力団員は誰も収容されていなかつたことが認められる。そしてこれら事実と右竹内の証言とを対比すると、右証言中竹内が山口署に勾留された日時、被告人が留置場内で房を変えたこと、暴力団員が多数入つていたこと、最初被告人に会つてから一、二ケ月後刑務所でまた被告人に会つたことはいずれも虚偽であることが明らかであり、さらに竹内が留置された翌日とするとそれは昭和三〇年一〇月二八日で、被告人がまだ本格的取調を受けていない段階であるし、竹内の勾留期間中のことであるとしても被告人自身こめかみに傷をうけたことはないと当審で供述しているので、かかる多くの虚偽の事実を含む竹内の右証言はその余の部分についてもそのままは信用できない。

(ニ)  一審証人岩倉重信の証言(五の一六三六)。その要旨は、「昭和三〇年一一月二七日頃から約一ケ月山口署留置場第四房に留置されていたことがあるが、そのとき被告人は第六房にいた。当時被告人は大変やつれており、夜の一二時すぎて房に帰つて来たことが一、二回あつたと思う。」というのである。なるほど証四〇号(留置人現在簿)によると、岩倉は昭和三〇年一一月二七日から一二月二四日まで山口署留置場第三房もしくは第四房に留置されていたことが認められ、被告人の様子を見聞する機会があつたことは明らかであるが、当審証人守田満男の証言によると、留置場内に時計の備え付けはなく、腕時計等の携帯も許されていなかつたので、岩倉の右証言中「一二時すぎ」との時刻の点についてはその正確性に疑問がある。また「大変やつれていた」との証言については、その内容自体どのようにも解されるし被告人の具体的様子は右証言のみでは明らかでないが、当時夜間取調もかなり行なわれていた時期であるから一応の信用性があると考える。

(ホ)  被告人着用の衣類が拷問により破損し、一部が行方不明になつているとの被告人の供述。被告人の右行方不明になつた衣類を含む当時の着衣の種類、量に関する供述は、一審以来当審に至るまで絶えず変転流動していてこれを矛盾なく理解することはできない位であり、被告人においてことさら提出証拠にそうよう虚言を弄しているのか、単に記憶が不確実であるにすぎないのか分らないけれども、いずれにせよこの点に関する被告人の供述をそのまま信用することはできないのである。もつとも被告人撮影の写真(昭和三〇年一〇月二一日付、同年一一月四日付-証四七号、昭和三一年一月頃-証四八号、証四九号、同年二月頃-証四一号)によると、逮捕直後頃被告人の着用していた徳利シヤツ、開襟シヤツがその後の写真に写つていないことが認められるが、右写つていないのはこれらが何者かにより処分されたことによるのか、撮影時たまたま着用していなかつたことによるのか必ずしも明らかでない。かりにこれが処分されたことによるとしても監獄法五三条により留置人が着用している衣類については担当官に保管を委託しない限り留置人名簿に記載しない建前である(同法五四条にいう「私に所持する物」とは所持を禁止された物をいうのであり、同法三三条により衣類は自弁が原則で、日常生活に必要な衣類の着用は本人の自由に委ねられている)から、右名簿に廃棄等の記載がないことから直ちに着衣が拷問により破損したため警察官により勝手に処分されたものと推定することはできない。また、旧二審および当審証人山口信の証言によると、昭和三〇年一二月末着古しの丸首シヤツ、緑色のチヨツキ、薄ねずみ色のズボンを被告人に与えたことが認められるが、それは被告人の汚なくて朽ちそうになつた着衣をみて同情して与えたものであるというのであつて、被告人の逮捕時における生活状況、季節、勾留期間、差し入れ関係等を考慮すると、右一事をもつて拷問による衣類の破損を推測することはできない。

(ヘ)  被告人の受傷の有無、程度。被告人の供述するような拷問が真実そのとおり行なわれたとすると、単に被告人の供述する程度の受傷にとどまつたものとは考えられないばかりでなく、被告人の供述する頬がはれたというのは一審証人糸永洋(歯科医師)によると虫歯による口内のはれであると診断されており、被告人のこめかみに血がにじんでいたとの前記(ハ)の竹内証言の信用できないことは(ハ)に説示したとおりである。また捜査日記(証二七号)一一月二二日の項には、「被告人の両瞳、顔面がふくれ」との記載があるが、それは同所にも記載されているとおり睡眠不足の場合にもあり得、拷問の結果であるとまで認めることができず、その他右(ホ)の各写真、一審証人清水キミヤ(内科医師)の証言、当審証人守田満男の証言に照らしても、当時被告人に外傷の存在はもちろん、拷問の結果とみられる身体的異常(小便のたれ流しを含む)のあつたことは認め難いのである。

(3)  一審公判において検察官から自白の任意性立証のためとの趣旨で提出された警察官採取の録音テープ一巻ないし三〇巻について検討する(以下録音の引用は便宜当審検察官作成にかかる録音テープ反訳綴の頁数によることとし、たとえば「一-一山口」は「一巻一頁発言者山口巡査」の略記である)。

右録音テープは警察官が隠しマイクにより被告人不知の間に録取したもので、昭和三〇年一一月一一日から同年一二月二五日までの被告人取調の状況が録音されているのであるが、遺憾なことに捜査官の判断により取捨選択が行なわれその全部が録音されておらず、むしろ全取調時間に比すれば極く一部であり(たとえば、捜査日誌記載の取調時間と対比しても、一一月一九日は同日誌で八時間、録音時間四五分位、一一月二〇日は同日誌で三時間五〇分、録音時間二四分位、一一月二一日は同日誌で五時間、録音時間二時間半位である)、その上新しくなされた重要な被告人の供述或いは重要な供述の変更の際の経緯についての録音がほとんどなく(たとえば徘徊コースの変更等)、明らかに復習と思われる録音がある(たとえば一四-三〇四以下、一九-三九七以下、二二-四八七以下)ので、現存する録音テープにあらわれた以外の具体的取調状況は右あらわれている部分とかなり異なるのではないかとの疑をいれる余地があり、任意性の判断にあたつてもこの点を看過できない。

(イ)  「一服煙草をよばれてもよろしいですか」(一-一被告人)、「うん煙草」(一-一木下)、「吸いながらでいいからな、ほいでひざもなあくずしてなあ」(一-二木下)、「どうもひざくずします」(一-二被告人)、「お茶をついで、水をやろうか、一服吸うて一息に話をしてしまえよ」(一-一九山口)、「ほいじやあねちよつと休もうな、ここで一息しようや、お茶飲んでな」(二-二八木下)、「お茶飲むかお茶いれたろーの」(二-二八山口)、「まあ今一服煙草吸うての」(二-三一木下)、お茶をつぐ音(二-三一)、「お茶飲んだか」「あー」(二-三二山口、被告人)、「朝主任さんに貰うたパンうまかつたですな」(二-四五被告人)、「煙草もなくなつたらいえ、やるからの」「いいえもう」(三-五三木下、被告人)、「昨日も寒いといいよつたからあと毛布をちいと入れちやれやちゆうてなそいで入れてもろうたんじや」「ええ毛布を入れてもらいました。それからパンを入れてもろうて……初めて腹一杯あの大きなパンと餅を食べたんですよ、もろうて」(三-五六以下木下、被告人)、「ええパンでのうてもいいです。あの安い古いのでもええですからね」(三-五八被告人)、「買うてあげるからね、ほいじや一つ」(三-五九木下)、「じやあこれだけ吸うて」(三-六〇被告人)、「うんそれだけ吸うて帰んなさい」(三-六〇木下)、「パンは食べたか」「はあ」(三-六二山口、被告人)、「ちいともうちいと火鉢の方へもうちいと進めや」(三-七〇木下)、「一服吸いなさい。一服吸うてそれから話をしよう」(六-一二三木下)、「そいじや火鉢にもあたりなさい」(六-一三七木下)、「ひざ組もうや、そがいにひざかしこまつているから話できん」(八-一六九木下)、「煙草吸いよんなさい」(一〇-二〇九木下)、「たばこを吸いなさい、姿勢を楽にして、気にすることはないからね」(一二-二六一山口)、「お茶を飲みなさい。パンを食いなさい「(一二-二六六来嶋)、「ひざくずしても」「うん」(一二-二六七被告人、来嶋)、「ひざ組んでもええ、足が痛いのにむりをせんでも」(一二-二六七来嶋)、「煙草を吸いなさい」(一三-二八四来嶋)、「もう夕飯も来ておるからね」(一三-二九四来嶋)、「よしこれで煙草吸う吸うでもええ」(一四-三〇五山口)、「便所へ行つてくるからな、お前行くか」「ええです」「ええか」「休みます」(一八-三九二木下、被告人)、「煙草を吸いながらでいいから」(一九-三九八来嶋)、「足が痛けりや座つてもいい。楽な姿勢でのう」(一九-三九八山口)、「よし食事にしてもらいなさい」(二〇-四四一木下)、「ひざをくずして、話しなさい」(二一-四五三熊本)、「ふーんひざを組め、足が痛けりや」「はあ」(二五-五二八来嶋、被告人)、「おいひざくみよれや」「はあ」(二九-六一六山口、被告人)、「ままたべたか」「はあ」(三〇-六一九山口、被告人)

以上のような発言内容によると、被告人の取調中の姿勢は自由で煙草、茶、水、パンも支給され、火鉢にもあたつており、その他食事、便も普通に行なわれていることがうかがわれ、「このたびあんまり情ようしていただいて、はしからはしから自分がまあ身のおき所がないようになるから」(一〇-二〇九)とか「まあ皆さんから期待かけられて情ようしてもろうたので」(一〇-二一〇)との被告人の発言にてらしても、被告人の供述するがごときはげしい肉体的拷問のあつたことを想像することは困難である。

(ロ)  「君もようがまんしたよ」(二-三一山口)、「またつらい思いをせんでもいいで」(三-五三山口)、「つらい思いはしません、もう」(三-五三被告人)、「ここでこの間からがんがんがんがんいいよられたあの顔がやつぱりすーとでてきます」(三-五五被告人)、「のうこの間からつらかつたろうが」(三-六〇山口)、「四の五の四の五のいうたときにはありやあれはやつぱり意地になります」(三-六一被告人)、「あんな腹が、腹が」(四-八四被告人)、「腹立たしちやいけんじやない、おこらしたらいけんど」(六-一二〇山口)、「そんなに手間をかけるんじやつたら君が苦しむ、苦しんで」(八-一七三山口)、「はあいつたあ」(九-二〇一被告人)、「つらかつたのう」(一二-二五七山口)、「君がまあ今まで痛いのはみな君がああやつて手間をかけるから、君だけ痛うなるのう」「修養さしたんよ」(一二-二六七山口外一名)、「これでまた楽になるよのう」(一三-二八三山口)、「岡部を怒つたけどね、お前が憎うて怒るんじやないぞ」(一四-三一五来嶋)、「わかつてくれるじやろうと思つて怒る」(一四-三一五山口)、「お前につらいこと言うたこともあるし、君が往生ぎわが悪いから根性がのう、それでやつたことで、お前をかわいいからこそやつた」(三〇-六二〇山口)

以上の各発言の意味は必ずしも明白でないけれども「かわいいからこそやつた」とか「修養さしたんよ」等の言葉は、通常の説得を続けた程度で出るものとは考えにくく、程度はともかく何らかの強制もしくは威迫的取調べがあつたことをうかがわせるものがある。

(ハ)  「主任さんにおすがりするよりほかにもう今はどうにもならんのじやからのう」(一-九山口)、「驚きやせんよ一つも、これは既成の事実だからね」(三-六六木下)、「自分がやつた、犯したことについてはどうでも自分が話さんにやこれは解決がつかんなあ」「三-七三木下)、「今頼つとかにやあ、頼る時期で今が、のう潮時で、今」(四-八六山口)、「いずれ話をせにやけりやいけないんだから。おそかれ、はやかれ」(六-一二四本下)、「今後話をするというても聞かんで」(八-一七三山口)、「ほんとうにお話しとかんにや、こんだあお前救うてもらえんようになるで」(二九-六〇八山口)、「結局その話をせにやすまんのじやからのう」(三〇-六二〇山口)

以上の発言は、被告人が自白しなければいつまでも勾留が続くことをほのめかし、頼れるのは取調官のみであることを示し、被告人にどうしても自白しなければすまないような窮迫ないし絶望感、あきらめを与えるものであり、被告人も「はよう言うて送つてもらわんにやいけんですわ」(二-二六)、「もうあきらめましたいよいよ」(一-四七)など発言している。

(ニ)  「中でなんとなあ、よいよつい体がもてんことがあることがある」(二-三一)、「ああやつてねとるけど」(同上)、「えろう、ああえろう、しまつがとれん」(四-九一)、「弱つたのう」(四-九二)、「ちよつと主任さん待つて」「はあ休まにややれん、どうも統一をとれんようになつた、はあ弱つちやうなあ」(六-一二三)、「頭がボーとしてくる、ほいてじつとまた目をつぶつてこうねとる、うつらうつらする」(八-一七七)、「留置場に入れてやつてや今晩、頭がしやんとせん」(九-一八六)

以上被告人の発言は被告人の心身が実際に衰弱していることを示すようにもみえるが、単に追及をまぬかれるため口先だけで弱つたと言つているにすぎないともみられなくはなく、いずれにしても警察官の被告人に対する追及がかなりきびしかつたことをうかがわせるものである。

(ホ)  「ゆんべでも出とうなかつたんです、本当のことをいうとまだ考えたかつたんです」(三-五六)、「主任さんあかんけ」(四-八〇)、「主任さんあかん」「あかんて」「はああかんのや」(四-八二)、「言つちやだめ」「言つちやだめなんだ、そのあというたらあんた」(四-八五)、「ねえ主任さんかんにんして」(六-一二七)、「主任さんこらえてくれんねえ、こらえてくれんねえて、主任さん、かんにんして主任さん、たのむ、たのむ、たのむて、と、と、統一、統一をとらして」(六-一三九)、「もう一日安心させる、たのむ主任さん、かんにんなされや」(七-一四六)

以上は被告人が警察官の取調を明らかに拒否し、その中止方を必死に歎願している発言であり、このほか被告人はすすり泣き、沈黙、ため息をくり返しているところも数多くあり、これに対し、警察官は、「あかんけどそこを力を入れて話さにや」「なんぼ泣いても同じこと、のう話したら楽になる」(四-八一山口)、「話しなさい、顔を上げて一気に話しなさい」(四-八一木下)、「どこから入つたか山根へ、それだけでいいんだ」(四-八三山口)、「あしたじやいけん」(六-一二七山口)等かわるがわる話せ、話せとつめよつているのであつて、これらは警察官において説得の限度をこえ、供述の自由を実質的に侵害していることをうかがわせる。もつとも被告人には右のような発言のほか、「話をしようと思つて出たんです」(二-二五)、「何か一口でも言うたら気が楽になるんじやろなちゆう気がしたんです」(二-四六)、「それで頼んだのです」(二-四七)、「話そうと思うて主任さん来たんやて」(六-一四〇)との一一月一一日の取調が被告人の申し出により始まつたことを示す発言、「いおうと思うとつてもええくそもうどうにでもなれいと思うてもやつぱりそのこの一本にこうなりかけて、いやあ、こうあねえ、あねえ、あねえ迷うときがあります」(三-五五)、「どねいでも統一とつたら話す気がでて来た」(三-五八)、「牧川が目の前に写つてはあ自分では話せん、お母さんの顔が浮んで、子供の顔がちらつきやがるんで」(六-一二五)、「(侵入口を言つたら)命を早める」(七-一四六)との言おう言おうと思いながらも親や子を思い或いは牧川を思いどうしても言い出せない、また命も惜しいという趣旨にうかがえる発言も多々あり、警察官をしてもう一息押せば、また元気づければ自白するに違いないと思わせる状況もあつたとうかがえるのであるが、この点を考慮しても前記発言の内容、その執拗の程度、長時間であることに照らし、やはり説得の限度をこえているものといわざるを得ない。

(ヘ)  以上録音テープ検討の結果によると、右(ロ)ないし(ホ)のような主として心理的強制、威迫をうかがわせる発言内容があるかと思えば、一方では(イ)のような種々配慮した親切な言動もあり、これらが同一巻中に混在しているのであるが、これらの全録音中に占める割合からみるとやはり(ロ)ないし(ホ)が取調べ初期において圧倒的に多く、(イ)のような配慮をもつてしても全体として自白強制を疑わしめる無理な取調べという印象を免れ得ないのである。そして右結果は厖大な全取調状況のうちの一部しか採用されていない録音テープによるもので、重要な新供述、供述の変更の経緯が採取されていないことを考慮するとき、右採取されなかつた取調状況について録音テープにあらわれた取調状況とは異質な穏健な取調が行なわれたものとは保証し難く、ほぼ全部を採取したと思われる一一月一一日の分に(ロ)ないし(ホ)がことさら多く目につくのはそれがほぼ全部の録音だからで、その余の日は一部録音が多いため(ロ)ないし(ホ)のごとき部分が採取されていない疑もないことはない。

(4)  そこで以上検討の結果を総合し、さらに前記第二(とくに(三)の(13)。(四)の(1) 、(2) )により明らかな取調場所、期間、回数、時間、取調官の数、取調方法をもあわせ考慮するときは、被告人の供述するようなはげしい拷問があつたとまでは認めることができないけれども、物証の乏しい重大事件の解決を焦る警察官において、数名掛りで被告人に対し十数日にわたり昼夜の別なく執拗な説得追及を反覆した結果、被告人も精神的にも肉体的にも窮迫の末ついに自白するに至り、爾後警察においては右自白を維持する外なかつたのではないかとの疑もあり、すくなくとも警察官調書については強制による自白を録取したものとして一審判決の認定のごとくその任意性に疑があるといわざるを得ない。

(三)  そこで次に検察官の取調について検討するのに、その概要は前記第二の(四)の(7) ないし(10)のとおりであつて、右取調を通じて強制、強要が加えられた形跡はなく、被告人において自白をひるがえしたこともなく、山口刑務所へ移監後は接見交通が自由に認められる状況下にあり、ことに検察官採取の録音テープにあらわれている質問応答の状況からは被告人が任意に発言していることが明らかであるし、被告人の経歴、前科歴にてらし警察官と検察官との違いは熟知していた筈であること、警察官の取調にはげしい拷問のあつたことは認め難いこと及び被告人の年令、健康、生活歴等をも考慮すると、検察官取調に警察官取調の際の強制による心理的影響が残存していたものとは認められない。

もつとも、被告人が山口刑務所に移監されるまでの検察官の取調場所は警察官の取調場所と同一であり、しかも警察官一名が立会つており、検察官の取調と並行して警察官の取調がされており、検察官の取調以前に行なわれた警察官の取調が二ケ月半に及ぶ長期のものであつて、少くとも移監までの検察官取調には警察官取調の際の強制による心理的影響が残つているのではないかと考えられなくもないのであるが、取調場所の同一については身柄を検察庁に運ぶ場合の危険性、検察庁取調室の状況が報道機関にのぞかれるおそれがあつたこと(移監後も検察官は検察庁で調べず刑務所内で行なつている)に照らしやむを得ない措置であつたといえなくはなく、警察官の立会、警察の並行捜査についても右立会が身柄監視のためのみであつたこと、並行捜査の内容はむしろ検察官取調にあらわれた新供述(三谷川橋のパン屋等)、或いは変更供述(物色、刺殺の手順等)の確認、補充的捜査にとどまつていることに照らし、さして重視するにはあたらず、警察官の長期取調については一面被告人の虚言を交えての供述の度重なる変更によることがうかがわれるし、昭和三一年一月に入つてからの警察官の取調はそれまでの取調と異なり回数も時間も追及の程度もゆるやかになつていたと認められるので、昭和三〇年一二月末までの影響をさほど重視することはできず、結局検察官の取調に際しては移監前のそれをも含めて警察官取調の際の強制による心理的影響は残存していなかつたものと認める。

なお、被告人は、検察官の録音採取に際しこれを拒否したところ、検察官が「そんなことなら刑事さんに取調べてもらう」と言つた旨供述するが、旧二審証人中根寿雄、一審証人小島祐男の各証言に照らし、また右録音の内容に照らしても信用し難く、また被告人は検察官の検証時にも同行警察官から暴行をうけた旨供述するが、当審証人三輪兼治の証言に照らし信用できず、更に被告人の右検証前何回も現地の地図や図面を見せられ予習させられたとの供述についても右供述し始めた時斯が旧二審の結審直前であり、それ以前の上申書には検証前予習したことなど何ら触れていないことに照らしても信用できない。

(四)  被告人の検察官に対する自白が不当に長く拘禁された後の自白にあたるか否かについて考えるのに、被告人が強殺事件につき警察官により本格的取調をうけ始めたのが昭和三〇年一一月四、五日頃で自白に近い供述をしたのが同年一一月一一日、最初の自白調書が作成されたのが同年一一月二二日であること前記第二のとおりであり、その後は犯行前の徘徊経路、犯行の動機、順序等につき訂正補充変更がなされたのにすぎないとみられ、検察官に対する自白の内容も右警察官に対する自白の内容と大差ないので、検察官に対する自白をもつて刑事訴訟法三一九条にいう不当に長く拘禁された後の自白ということはできない。

第五、別件逮捕、勾留に関する主張についての判断

(一)  この点に関する論旨は要するに、本件捜査の経緯に照らし、捜査当局は当初から強殺事件捜査を目的とするものであるのにその証拠がないため、住居侵入、窃盗未遂というそれのみでは起訴価値の乏しい別件を表面に出し、これに基づいて逮捕、勾留を続け、実際には強殺事件について取調を行なつたのであるから、かかる捜査手続は令状主義を規定した憲法三三条、三四条等に違反する違法不当なものであるというのである。

(二)  そこで先ず前記第二の(一)の(5) 、(6) の被告人に対する逮捕状の請求、(6) の逮捕状の執行(同(10))の適否について考えるのに、右(5) の逮捕状記載事実は当時より二年前の窃盗で、被告人に窃盗の累犯前科があつたこと、被告人が当時所在不明であつたことにてらし右窃盗事実自体につき逮捕の理由、必要性がなかつたとはいえず、また右(6) の逮捕状記載事実は当時より三年前の住居侵入、窃盗未遂で、(5) の事実よりはある程度事案軽微といえるにしても、起訴処罰価値がなかつたといえないことは、この事実について一審裁判所が懲役四月の刑を言渡し、この裁判が確定していることに照らし明らかであり、右(6) の事実自体についても逮捕の理由、必要性があつたものと認められる。ただ、第二の(一)の(2) 、(4) の捜査経過および全国に指名手配したことに照らすと、捜査当局が右(5) の窃盗、(6) の住居侵入、窃盗未遂の逮捕状を請求したのは、右事実の捜査のためでなく、強殺事件と被告人の結びつき(アリバイ)の有無をも捜査するためであつたと認めるに難くないのであるが、逮捕状記載事実につき起訴処罰の価値があり、逮捕の理由、必要性がある以上は、他の事件についての捜査の目的が含まれていたからといつて捜査権の濫用とまではいえないこともちろんであり、また逮捕後、前記第二の(二)の(3) の勾留請求までの間被告人が取調べられたのはすべて逮捕事実に関するものである(同(二)の(2) 、(3) )から、この点からも本件逮捕を違法ということはできない。

(三)  次に勾留請求、勾留状執行後の取調の適否について考えるのに、当時被告人が大阪市天王寺公園で浮浪的生活をしていて逃走のおそれがあつたこと、逮捕事実についても捜査が全く完了していたとも認められないこと(第二の(二)の(2) の自白調書の内容は非常に簡単である)にかんがみると、逮捕事実につき勾留請求をしたことをもつて捜査権の濫用ということはできない。

ただこの場合も逮捕状請求のときと同様勾留事実の捜査のためだけでなく、強殺事件と被告人の結びつきの有無をも捜査するためであつたことは否定し難く、しかも勾留状執行後同事実による起訴までの間に同事実に関する取調(第二の(二)の(5) )のほかに、同(二)の(4) の三日間にわたる被告人が郷里を出てから逮捕されるまでの生活行動についての取調があるので、これについて検討する。右取調の一部は前記勾留事実に関する経歴調書の内容となつていると思われるので、この点では勾留事実の情状調査の面も全くないとはいえないのであるが、主たる趣旨はやはり強殺事件発生当時の被告人の所在とくに山口に帰つたことはないかとの点を間接的に知り、同事件の捜査の資料を得ようとしたことにあると考えられる。しかし右被告人の取調は説得、追及の全く含まれない文字通りの事情聴取であつて、その内容、方法、期間にてらすと、他事件(勾留事実)による勾留中になされた取調べであるとはいえ、未だ令状主義の趣旨にもとる取調と非難すべき程のものではなく、住居侵入、窃盗未遂事件の勾留後起訴前の取調をもつて直ちに違法ということはできない。なお、本件では右勾留期間中に警察官が大阪に出張して被告人のアリバイ関係を捜査しているのであるが、かかる任意捜査の行ないうることはいうまでもなく、この捜査のためとくに起訴がおくれて勾留期間が長期化したとも認め難いので、右捜査も違法とはいえない。

(四)  そこで次に、右勾留事実についての起訴の当否について考えるのに、住居侵入、窃盗未遂の公訴事実が起訴処罰価値のないものでないこと前記のとおりであり、右起訴の時点において起訴検察官としては起訴までの前記のような捜査の経緯にてらし強殺事件についていまだ深く検討もしていなかつたものと考えられるので、本件起訴事実について本来起訴の必要性はないけれども起訴さえしておけばその事実による勾留が続くから、これを強殺事件の捜査とくに被告人の取調に利用しようとの意図であえて起訴したとまで認めることはできず、右起訴をもつて公訴権の濫用であるとまではいえない。

(五)  問題は、むしろ右起訴後における強殺事件についての被告人取調の適否である。

本来起訴後の勾留は、被告人の逃走或いは罪証隠滅を防止し、右勾留の基礎となつている起訴事件の審理の円滑、適正な遂行を確保するためのものであるから、起訴事件以外の余罪事実捜査のため被告人の身柄を確保し被告人を取調べる必要があれば右余罪事実について新たに令状の発付を求め、これに基づいて身柄を拘束すべき筋合である。しかし、すでに起訴事実につき適法に身柄が拘束されている以上再度身柄拘束の手続をとることなく起訴事実についての身柄拘束を利用して被告人を取調べても、その取調の期間、方法、程度にてらし起訴後の勾留本来の目的を著しくそこなうことのない限り、とくに弊害もないと考えられる。ここに起訴後の勾留本来の目的を著しくそこなうというのは、たとえば、余罪事実についての被告人取調が起訴事実の審理に通常必要と考えられる期間または右事実が有罪であるとして通常予想される刑期に相当する期間を超えるほど甚だしく長期にわたり、しかもその間取調が連続、集中して多数回にわたり行なわれるような場合であつて、このような場合は取調の期間、方法、程度にてらし起訴後の勾留がほとんど余罪事実についての被告人取調のための身柄拘束に転化しており、起訴後勾留の利用の限度を超えているものというべきである。従つて、もしこの限度を超えてまで身柄確保の上余罪事実の取調が必要と予想されるときは、事件単位の令状主義の原則に帰り、捜査官はこの余罪事実について令状請求等の措置をとり裁判官の審査を経た上その令状によつて身柄を確保し、法定の期間内に取調を行ない、 起訴、不起訴、身柄釈放等の措置をとるべきであり、かかる措置をとることなく起訴後勾留の利用の限度を超えて取調を続行した場合は令状主義の趣旨にもとる取調として違法の疑を免れない。

これを本件についてみるに、前記第二の(三)、(四)のとおり、住居侵入、窃盗未遂による最初の起訴後右事実による勾留中、捜査官によつて強殺事件につき被告人取調が行なわれたのは、昭和三〇年一一月二日から翌三一年三月二三日までで、その期間は約四ケ月半にも及んでおり、その間検察官取調の一部を除き、絶え間なく取調が続けられているのであつて、かかる取調の期間、方法、程度にてらし強殺事件についての被告人取調は起訴後の勾留の利用の限度を超えているといわざるを得ない。

すなわち、警察官取調は昭和三〇年一一月二日から翌三一年一月下旬項まで、検察官取調は同三一年一月一一日頃から三月二三日まで行なわれているのであるが、被告人の刑務所移監後である二月一九日以後三月二二日録音採取に至る間を除きおおむね取調は継続してなされており、ことに昭和三〇年中の約二ケ月間は五三回(一日を一回として)うち夜間取調二六回にも及んでいて、その連続、集中の度合は甚だしく、しかも、最初の起訴にかかる住居侵入、窃盗未遂の事案、並びに第二の(四)の(5) の追起訴にかかる窃盗の事案はその内容、証拠関係に照らし、おそくても昭和三〇年一二月末から翌年一月中旬頃までには審理が終結し判決され得る状態にあり、有罪の場合の刑期もさほど長くないと考えられるのに、被告人取調は右通常予想される審理期間を超えてなお続行されているのであり、しかも、第二の(三)の(10)のとおり検察官からの申請ですでに指定されていた起訴事実についての第一回公判期日が変更になり、その上期日が追つて指定となつたまま強殺事件の追起訴あるまで右指定がなされなかつた経緯に照らすと、右審理の遅延は追起訴待ちいいかえれば強殺事件についての被告人取調の継続に基因するとしか考えられないのであつて、以上のような起訴後勾留の利用はいわば本末を顛倒したものであり起訴後勾留をほとんど強殺事件についての被告人取調のための身柄拘束と化し、右勾留の利用の限度を超えているといわざるを得ないのである。

そうだとすると、右勾留中強殺事件の起訴あるまで検察官から同事件につき令状請求の措置を行なつた形跡は全くないから、右勾留中の被告人取調は令状主義の趣旨にもとる違法の疑を免れないというべきである。

第六、検察官自白の証拠能力についての判断

以上第二ないし第五において検討した結果によれば、警察官調書の任意性には疑があるので、これを証拠とすることはできないのであるが、検察官調書および検察官録音はその任意性に疑があるとはいえないので、この点から証拠能力がないものということはできない。しかし、前記第五に説示のとおり検察官の被告人取調は警察官のそれとあいまつて起訴後勾留の利用の限度をこえながらなお令状によることなく続行されているのであつて令状主義の趣旨にもとる違法の疑のある取調であり、しかもこの間前記第三に説示のとおり選任遅延のため弁護人がいまだ付されていなかつたことをも考慮すると、右取調によつて得られた検察官調書および検察官録音に証拠能力を認めることにはちゆうちよせざるを得ない。

第七、結論

果してそうだとすると、被告人の自白以外に強殺事件と被告人との結びつきを証明する証拠に乏しい本件においては、その余の主張(事実誤認)に対し判断の要なきに帰する筋合である。

しかしながら、本件においては前記第六のとおり検察官調書および検察官録音の証拠能力の判断にはなお微妙な点があるうえ、差戻判決の法律点に関する拘束力についてもこれを消極に解することに疑問の余地がないとはいえない。すなわち、差戻判決は、「他に若干の重要な論点があるのであるが」と触れただけで自白調書、録音の証拠能力があるともないとも直接明示した判断をしていないので、当審が証拠能力の存否について自由に判断しても差戻判決の拘束力には反しないと解したのであるが、差戻判決の判文中には暗黙に自白調書、録音の証拠能力を認めていると理解され得る説示も存するのである。たとえば差戻判決には、「本件の自白がもしも信用することができその内容が真実に合致するものであると認められるならば……本件犯行を被告人の所為となすべきことは当然であり、原判決は正当である」とか、「六点のうち一ないし五のいずれか一つでもその存在が確実と認められるなら……自白とあいまつて本件犯行と被告人の結びつきを肯認するに足りる」と判示している。そして自白の証拠能力の存在はその信用性判断の当然の前提条件であることにかんがみると差戻判決は明示してはいないにせよ自白に証拠能力があることを前提として判断していると解する余地もないことはない。当番としては、たとえそうであつても、本来法律審として憲法その他の法令違反の主張に対してその余の主張に優先して審判すべき最高裁がことさら明示の判断をしていない以上暗黙の判断にまで拘束力を認めることはできないと考えたのであるが、これには異論のあることも考えられる。のみならずもともと差戻判決はとくに、「審判の核心をなすべきものはこの本件犯行の外形的事実と被告人との結びつき如何であると考える」と判示してなお審理を尽すべく当審に差戻され、当審もその趣旨に則り証拠調を行なつて審理を尽したのである。従つて以上のような本件の特殊性にかんがみ以下自白の信用性、真実性これを補強する間接事実、補助事実を中心に事実誤認の論旨についても判断を示すこととする。

事実誤認の論旨について

本件控訴趣意中事実誤認の主張は、要するに、被告人は本件強盗殺人の犯人ではないのに、被告人の自白に信用性があり、これを裏付ける証拠もあるとして被告人を犯人と認め有罪とした一審判決は事実を誤認しているというのである。

そこで検討するのに、一審証人須藤玉枝、同西村肇、同木村完左、同須藤友一の各証言(一の一二二、一の一三九、一の一四八、五の一八二一)、司法警察員作成の検証調書(二の四九六、二の五九三)藤田千里作成の鑑定書(一の一六八、一の一八八、一の二〇四)田中清人作成の鑑定書(一の二一三、一の二四六、一の二六七)藤田千里作成の鑑定書(二の六一三、六一五)原田次正作成の鑑定書(二の六一八)および田村一市の司法警察員に対する供述調書(二の七四四)等を総合すると、次のような犯罪の外形的事実が認められる。すなわち、

(1)  昭和二九年一〇月二六日朝前夜午後九時頃までは格別異状の認められなかつた山口県吉敷郡仁保村牧川の山根保一家六人が目を覆うような惨殺死体となつて発見された。

(2)  右家族中、山根保と長男昭男、次男一吉の三名は夜具をはね、敷布団から乗り出し異状な体位で死亡していて、防禦ないしは逃げ出そうと試みた形跡がうかがわれるが、他の三名はおおむね自然の寝姿に近い体位のまま死亡しており、犯人は山根方家人の熟睡中を急襲し、抵抗も逃げ出す隙もないほど短時間のうちに、六人を殺している。

(3)  しかも右六名の死体には、いずれも頭部ないしは顔面に、有刃鈍器による重大な切創或いは裂傷が多数あつて、それぞれ顕著な骨折を伴つていて、右受傷のみでももはや抵抗することも逃げ出すこともできなかつたと思われるのに、頸部にはそれぞれ尖鋭な刃物による刺傷または切創があつて、ほとんどの者が頸動脈、頸静脈、気管、頸椎などを切断され、さらに山根保夫婦および老母トミは胸部、心臓部にも刺傷をうけ、なかには心臓に大穿孔の創傷を負つている者もあり、その間に老幼の区別なく、年齢一一歳の三男実にも既に七七歳に達し抵抗力も逃げ出す力も衰えている老姿トミに対しても、何らの容赦もなく攻撃が加えられていて、とくにトミに対する攻撃の熾烈なことに不可解の感すら抱かしめる。

(4)  現場には山根夫婦等の死体のあつた中六畳の間に、山口地方でちようの鍬と呼ばれる厚刃の鍬一丁が血塗れのまま放置され(その一端刃の部分は山根保の死体の下に隠れるようになつている)、トミの死体のあつた四畳半の西縁側には、血に塗れた尖端鋭利な庖丁一丁が放置されていて、右鍬、庖丁は山根保方の所有物件であり、本件被害者等の創傷の性状と対比して、本件犯罪に使用された兇器と判断される。

(5)  前記トミの死体のあつた四畳半の部屋には、長さ約一八五糎、直径約一〇耗前後の繩切一本が遺留されていて、右繩は農林一〇号の稲藁を栗原式製繩機によつて製造した繩の一片で、長石、石英、木炭末と小量のO型血液が付着している外、一〇箇所の屈曲部を有するが、犯行時の用途とその出所は不明であつた。

(6)  金品物色の形跡としては、(イ)母屋台所付近の土間に、一握り程度の白米が散乱していて、犯人が近くの物置内から白米を盗み出そうとしたのではないかという形跡があり、(ロ)山根夫婦の死体のあつた中六畳の間の東北隅の書箱の抽斗内がかき乱されていて、金銭物色の形跡があり、付近の畳の上に山根美雪が使用していたと認められる黒色ビニール製財布一個が放置されていて、その中には五円硬貨一枚だけが残つており、(ハ)山根夫婦の死体の足許にあたる重ね箪笥の小抽斗は、うち一つはメリヤス手袋をはさみ込んだまま押し込まれてあり、他の二つは一・五糎ないし一〇糎程度引き出されたままになつていて、金品物色を疑わせるのであるが、内部は比較的整然としてかき乱した形跡は顕著でない、(二)以上の外には金品物色の形跡はなく、トミの死体のあつた四畳半の間の箪笥その他から現金合計九、二三〇円余および三万一〇四三円の預金通帳等が発見されている。

(7)  本件犯罪発覚当時の山根方の戸締状況は、同家南側出入口、座敷、納屋等の板戸は完全に閉められているが、トミの部屋の西側、山根夫婦の部屋の北側はいずれも開閉自由の障子のみで屋外に接し、容易に侵入することが可能であり、また納屋裏出入口の板戸と右納屋から母屋土間に通ずる板戸も鍵その他の戸締がなく、右経路から母屋に侵入することも可能であり、トミの四畳半の部屋の西側の障子の一枚は開けられており、その外縁側には山形の裏の地下足袋の足跡と推測される土足の跡があり、また台所の板の間にも形状不明の大人の土足の跡らしい土の汚れがあつた。

(8)  各被害者の死体のあつた部屋の畳や寝具の上、炊事場の土間、台所板の間などには、血に染まつた地下足袋の足跡が多数散在し、それらはほぼ同種の地下足袋の足跡と認められ、うち一つは明らかに月星印の商標のある十文半ないし十文七分の地下足袋の足跡であり、右以外に異種の足跡と認められるものはなかつた。

(9)  本件犯罪現場からは犯人を特定し得るほどの指紋は遂に検出されず、また夜間照明なくして他家において本件のような多数殺害を実行することは至難と思われるのに、山根方の電燈はいずれも発見時消燈されており、しかも台所並びに納戸の各電燈には犯人が触れた際に付着したと思われる血痕があり、本件犯行のため侵入し歩き廻つたと認められる各室の境の障子や襖が発見時はそれぞれ閉められていた。

以上の事実が認められ、これらをあわせ考えると、六人殺害という兇悪な犯行に比し金銭物色の形跡の少くない点に怨恨による一家鏖殺事件ではないかとの疑もないではないが、やはり金品目当の兇悪周到な強盗殺人事件とみるのが相当であり、しかも本件は単独犯であつて、その犯人は冷酷残忍で大胆不敵な性格者であり、犯行中或いは脱出時に、被害者に顔を見られたり、近隣の者に怪しまれることのないように、障子、襖の開放を避けたり消燈などについて周到な配慮をした疑がある。そして生存被害者がなく、他に犯行の目撃者もなく、犯罪現場からは直接犯人を特定するに足る指紋その他適確な物証痕跡も発見されていないので、有罪認定のためには、犯人の確実な自白と、その裏付けとなる確実な補強証拠を要する案件といわなければならない。

ところで、被告人は捜査官に対し、前記法律点の論旨に対する第二において認定したとおり昭和三〇年一一月一一日に一旦本件犯行を匂わす供述をし、同月二二日付の警察官調書以来昭和三一年二月一九日付の検察官調書に至る二〇通にも達する警察、検察官調書、同年三月二二日に採取された録音三巻等においていずれも本件犯行を自白し、或いはその自白を前提として、犯行数日前当時の住居地であつた大阪市の天王寺公園を出発して犯罪地の山口県吉敷郡仁保村に帰来し、犯行までの数日間を過した徘徊経路、寝食の場所、出会つた知人の氏名、会話その他の状況、犯行後の逃走経路、出会つた人物、犯行によつて汚れた着衣の処分その他身辺の整理、小郡駅から大阪に帰るまでの行動、大阪に帰つてから天王寺公園の住居小屋に帰るまでの行動、強取した金品の使途処分などにつき詳細な供述をしている。

そして、これらの供述には迫真力を有する幾多の供述があり、また犯人でなければ知り得ないと思われる供述部分や客観的事実と符合する供述部分もあつて、このような供述内容に被告人の経歴、年齢、右自白するに至つた経緯、その後の供述経過、公判廷における被告人の弁解の態様等をあわせ考えると、右自白に信用性があると判断することも、一概に不当とはいえない。すなわち、被告人は、かつて短期間とはいえ警察官をしたことがあり、窃盗の前科もあり、捜査や裁判について或程度の知識を有し、一応の思慮分別もある壮年であつたのであるが、警察官の取調に被告人が訴えてやまない苛酷な拷問が行なわれた形跡はなく、ただ説得追及の程度を超えた強制の疑のある取調が五、六日続いた段階で早くも被告人は言えば極刑を免れ得ないような重大犯罪について犯行を匂わすような供述をし、その一〇日後には詳細な自白調書が作成され、さらに何らの強制がなかつた検察官の取調に対し、一度も自白を飜すことなく、むしろ犯行現場の状況等につき極めて詳細に自白し、検察官の検証時には検察官、検証補助者等の立会人の先頭に立つて事件当時通つた道順、関係場所を自ら案内し、被害者方屋内で被害者らの位置、物の在り場所、その他犯行の順序、犯行状況の詳細につき指示説明し、右取調期間中真に犯行を犯した者の悔悟の心境を表わしたとも解し得る手配、和歌等を捜査官に手渡しているのである。全く身に覚えのない被告人が、はたして本件のような重大犯罪を右のような経緯で自白し、その後も右のような供述の経過を辿るものであろうか、疑問なきを得ないところである。のみならず被告人の公判廷における弁解はとかく根拠に乏しく或いは不自然なものが多く、虚構と疑われる事実に基づくものもある。たとえば、被害者方の納屋と母屋の構造、配置、本件兇器、犯行現場の部屋にあつたもの等についてはすべて誘導があつたのでなく被告人において言い当てたと偶然の一致であるかのように弁解し、また後に詳説するように大阪の小屋を一日として不在にしたことがないと言い張りながら、首肯し得る具体的な根拠をあげることができず、血液銀行一〇月分のカルテに被告人の分が残つていないことについても納得し得る弁解はしておらず、堀駅付近のルーフイング葺の小屋について虚構と疑われる事実を援用して弁解したり、地下足袋の種類、購入店に関する弁解は公判の進行に伴ない逐次詳細に或いは反証に合わせるように巧みに変更されている等、被告人の弁解の中には真の経験、記憶に基づいての弁解と思われない部分がある上、何故そのような弁解をしなければならないのか全く理解に苦しむ部分も多くあるのである。結局かかる被告人の経歴、年齢、自白の経過、公判廷における弁解の変転推移は、前記自白の内容とあいまち自白の信用性を認める根拠となり得るとも考えられなくはない。

しかしながら、右自白の内容を更に仔細に検討すると、右自白のうちおおむね一貫していて本質的な変更の認められない部分は、すべて冒頭認定の(1) ないし(8) の本件犯罪現場の客観的状況から捜査官においても既知の事柄であること、六人殺害という兇行中の認識や記憶にしてはあまりにも細部にわたり詳細にすぎるものがあること、たとえば、物色した米缶の大きさ、被害者方台所の一部にゴザが敷いてあつたこと、山根夫婦の部屋の障子は腰高障子であつたこと、台所と老姿トミの部屋の電燈は共に二股ソケツトで、台所の方は電球が二つついていたこと等、反面、被告人が侵入口として自白している納屋裏出入口とこれに続く壁際には、玄米二斗入の叺が一〇箇横一列に並べてあり、その南側の土間には、約二〇俵分の玄米がほとんど一面に山積されていて、右出入口から母屋台所付近の土間に侵入するには、板戸並びに壁と叺積の間の巾四〇糎位の間隔を通り抜けるか、或いはその叺の上を越えて山積されている玄米の中かもしくはその周辺を横切る必要があり、夜間照明もなく不案内な者が通過するには足許についてかなりの配慮が必要だつたと考えられるのに、それらの特異な点については被告人は単に判然とは記憶しないと供述しているだけであること、その他本件犯罪現場の客観的状況のうち、一般人には理解困難で犯人であれば納得し得る説明ができると思われる点たとえば、各所に分散して寝ていた六人もの人を寝姿に近いままで殺害することが何故できたか、右被害者すべてに何故前記のような徹底的な攻撃を行なつたのか、炊事場の土間に何故地下足袋の足跡らしいものが残つているのか等については、被告人は全く供述していないかもしくは供述していてもなるほどと思わせることが少ないこと等にてらすと、おおむね一貫し動揺の跡の少ない犯行自体の供述にしても捜査官の判断の推移につれ、意識的、無意識的な暗示、誘導が行なわれた結果ではないかと疑われる部分や被告人自身の経験に基づかずに単なる想像によるものではないかと考えられる部分があつて、その真実性につき一抹の疑がある。

のみならず、後に詳しく挙示するように、右犯行の前後の情況事実、すなわち、被告人が犯行前大阪から犯罪地の仁保村付近に帰つた日時、犯行までの徘徊経路、寝食した場所に関する供述が、第五回警察官調書を境にして一変し、さらに右調書以後においても、右徘徊中における小田梅一、岡田栄等との出会、同人等との窃盗の相談、その実行、犯行前丸山の生家に立寄つた日時、その際身を潜めていた場所、母との対面時の会話、食事の内容、父親や実子通保の動静、山根保方侵入の決意の時期、さらには犯行後の逃走経路、その途中出会つた人物、血に汚れた着衣を処分し、身辺の整理をした場所、方法、小郡駅から大阪方面行の汽車に乗車した状況、車中での状況などに関する供述は、四ケ月余に及ぶ捜査の末期までしばしば変転動揺し、しかも互に矛盾し両立し得ない変転前の供述部分も変転後の供述部分も真の体験者でなければ語り得ないような具体性や真実らしさを備えていて、二、三の例外を除いては、いずれが真実でいずれが虚偽なのか容易に判別し難い。

そうすると、極刑にも値するような重大犯行の核心を自白し、供述調書上や手記、短歌などに悔悟の情さえ示しているようにみえる被告人が、その犯行前後の情況事実については、何が故に変転動揺し虚実不明確な供述をするのか、はなはだ不可解で理解に苦しむところである。すなわち、被告人が真犯人であつて、客観的証拠の揃つている犯行自体についてはやむを得ないと観念して自白したものの、犯行前後の情況事実については、捜査官において確実な証拠を握っていないことを見抜き、ことさら真実を隠蔽し、虚偽の事実を真実らしく粉飾脚色して当面を糊塗し、捜査によつてその裏付のないことを指摘される都度これを変更するに至つたもので、それは捜査を攪乱して確証の発覚することを防ぎ将来犯行否認の際の伏線とすることを意図したのではないかとの疑も濃厚であるが、他面右供述の変転動揺部分は、捜査官において裏付資料も予備知識も有しないために、具体的な誘導、暗示も行なわれず、また被告人にも犯行並びに犯行前後の体験がないが故に、捜査官の追及に窮し、過去の知識や別の機会の経験に基づき、その場限りの虚言を真実らしく粉飾して供述し、当面を糊塗しようとした結果ではないかとの疑も払拭し難いのである。

結局被告人の捜査官に対する自白の信用性、真実性は、さらに高度に確実な他の証拠によつて補強されることを要するところ、差戻判決は、被告人の自白の信用性、真実性ひいては本件強盗殺人事件の有罪、無罪を決する上にとくに審理を尽す必要ありとして六点を指摘しているので、以下この六点を中心に自白の信用性、真実性を検討する。

第一、本件犯罪発生の当時、被告人がその居住場所である大阪市内天王寺公園の図書館前の小屋から他出不在であつたか否か

(一)  被告人の捜査段階における供述

(1)  司法警察員に対する昭和三〇年一一月九日付供述調書によると、

昭和二九年九月初め頃、大阪市内の天王寺公園で小屋掛けして、同年一二月一日立退を命ぜられる迄の間バタヤ生活をしていて出稼旅行等で他所へ行つたことはない。

(2)  司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付供述調書によると、

昭和二九年一〇月二〇日過頃、天王寺公園の小屋を出て、翌日午前七時頃梅田駅より汽車に乗つて同日午後八時頃三田尻に着き、その後本件犯罪を犯し、犯行の翌々日天王寺公園の小屋に帰つた。

(3)  司法警察官に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書によると、

昭和二九年一〇月二二日昼前頃天王寺公園の小屋を出て、翌二三日帰郷し、本件犯罪を犯して、犯行の翌々日の夜小屋に帰つた。

(4)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日、同月二五日、昭和三一年一月二〇日付各供述調書、検察官に対する同月一三日、一四日付各供述調書、同年三月二二日検察官に対する供述録音によると、

昭和二九年一〇月一九日昼頃、天王寺公園の小屋を出て、パチンコなどをして夜を過し、翌二〇日午前七時大阪駅を汽車で発ち、同日晩三田尻に着き、その後本件犯罪を犯して、同月二七日夕方小屋に帰つた。

というのであつて、被告人が天王寺公園の小屋を出た日時、小屋に帰つた日時についての初期の供述には変動があるが、昭和三〇年一二月一七日以降の供述は一貫していて変更がない。

(二)  被告人の公判段階における供述

被告人は一審以来、右自白を覆えし、本件発生当時は、前記の小屋に住んでいて、大阪を離れたことはない。そしてその頃近畿電気工事株式会社南支店へ廃品回収に行つており、また毎月一、二回大阪市城東区蒲生町の血液銀行に売血に行つていた。右血液銀行の昭和二九年一〇月のカルテ中に被告人或いは山根保名義のものがないのは、血が薄くて検査に合格しなかつたことによるか耳や腕の傷痕の検査でことわられ、採血に至らなかつたことによる。

というのである。

(三)  被告人の供述の裏付証拠

(1)  (イ) 一審証人中田いとの証言(二の六九九)によると、

私は八歳の子供節子を連れて四国の巡礼をした後、昭和二九年九月頃、大阪市内の天王寺公園へ来て図書館のところで野宿していたとき、被告人と知り合い、同月二〇日ころから、警察から立退を命ぜられる迄の間図書館前の被告人の小屋で同棲していた。その期間中、被告人は大抵夜には小屋に帰つていたが、寒いとき、被告人が二、三日帰らなかつたことがあつたので、隣の山本のオツサンに「家の人は何処へ行つたろうか」と聞いたところ、オツサンは「何処へ行つたか知らん」といつていた。そのとき、山本のオツサンは子供の所へ金を貰いに行くときでした。それから二、三日経つた夜小屋で寝ていると、他所の男が今晩小屋へ寝させてくれといつて来たが、私の自由には出来んとことわつているところへ被告人が帰つて来た。

というのであり、被告人が不在にした時期について、寒いときというだけで、記憶がなかつたので、同証人の検察官に対する供述調書が刑訴法三二一条一項二号書面として一審で取調べられたのである。

(ロ) 右供述調書(四の一四三七)によると、

昭和二九年九月頃から同年一二月頃まで、天王寺公園の図書館前近くの小屋で被告人と一緒にいる間、丸一日被告人の姿を見ないということはなかつたが、ただ一回丈け一週間位姿を見なかつたことがあつた。何日から何日までかは覚えていないが、大体昭和二九年一〇月頃のことであつた。被告人は眼帯をかけた男と一緒に出かけて一週間して帰つて来た。

旨供述記載があり、その他公判供述と同旨の供述記載がある。

(2)  一審証人山本高十郎の証言(二の三九六)によると、

私は昭和二九年頃から、大阪市内の天王寺公園でバタヤ生活をしていたが、同年八月下旬、被告人が公園の図書館前の私の小屋に来て、「何をして食つているのか」と話しかけられたので知り合い、被告人にバタヤの手ほどきを教えてやつた。間もなく、そこを立退かされたので、公園の坂の所へ小屋を建てた。被告人も私の小屋から三間位離れた所に小屋を建て、巡礼のオバサン(中田いとのこと)とその女の子供と一緒に住んでいた。私は昭和三〇年二月二〇日茶臼山へ行く迄の間、毎月一日と一五日に娘の千代子の所へ小遣銭を貰いに行つていたが、昭和二九年一〇月一五日行つたときには千代子は居なかつた。そのとき、被告人も居なかつた。そして、私が一〇月二四日娘の所へ行くときに巡礼に会つたが、巡礼が「うちのオツサン二、三日帰つて来ん。心配や、何処に行つたか知らんか」というので、私は「何処へ行つたか知らんけど、二、三日したら帰つて来ますわ」といつた。その日が一〇月二四日であつたというのは、その日は娘の所へ金を貰いに行つた日で、手帳に書いていたので覚えている。その日娘の所へ行つたが、金は貰えなかつた。そして、一〇月三一日千代子の所へ行つて二、三〇〇円貰つた。その夜小便に行つた時、被告人が帰つて来た。そのとき、私が「にいちやん帰つて来たか。私は娘の所に貰いに行つて来た」というと、被告人は「俺も用事があつて行つて来た。詳しいことは明日話す」といつて別れたが、その後会わないので、それつきりきいていない。手帳には昭和二九年四月頃から月日を追つて毎日自分がしたことをつけていたが、翌三〇年一一月一七日、その頃住んでいた茶臼山の小屋に手帳をおいて、病気のため娘のところへ行き、帰つてみるとなくなつていた。

というである。

右山本高十郎の証言に関連して

(3)  一審証人友安敏良の証言(六の二三二二)によると、

昭和三〇年一〇月二五、六日ころ、被告人の昭和二九年一〇月頃天王寺公園に居たとの供述の裏付捜査のため大阪に赴き、当時茶臼山の小屋に居住していた山本高十郎を捜し出し、同人に昭和二九年一〇月中頃被告人が公園に居たかどうか尋ねたところ、同人は一〇月二四日中田いとがうちのおつさん、この間から四、五日帰つて来ないが何処へ行つたか知らんかと心配そうに尋ねたことがある。それでじきに帰つて来るよと言つてやつたと言つていた。それは何日かと念を押したら、手帳に書いてあるといつて本人が手帳を出したので、それを一緒に捜査に来た熊本刑事とみた。一〇月二四日と書いてあつた。どういうことで書いたかときくと、尼崎に働いている自分の娘の所に金を借りに行つた日だと、その日は借りたかどうかときいたところ、行つたが、借りられなかつたということが何か印がしてあつた。その後三一日に行つて金を借りた。それが両方書いてあつた。二四日にいとに会つたということは記入していない。借りに行く途中であつたと申立てていた。その手帳は長さ一〇糎、幅五、六糎位のものであつた。同人には何も財産もないのでとり上げるのに忍びなかつたので領置しなかつた。西門派出所で熊本刑事が同人から供述調書をとつた。

(4)  一審証人熊本清の証言(五の一九三三)によると、

昭和三〇年一〇月二五、六日ころ、友安警部と大阪へ裏付捜査に行つた。山本高十郎は尼崎の赤線地帯で働いている自分の娘の所から仕送りを受けて生活していた。毎月山本が娘の所へ金を貰いに行くのは二四日で、一四日には岡部は居なかつた。中田いとが家の父さんは今頃何処へ行つたんじやろうと山本に話したと申していた。そのとき、私は何かメモでももつているかと尋ねると、山本は小さい帳面を出して自分の娘から貰つた日を書いていた。一〇月二四日の日が書き入れてあるのを見た。また毎月二四日の日が書き入れてあつたのは間違いない。私が手帳を呉れないかというたが、もう少し待つてくれというので、後にあの手帳を呉れと行つたところ、既に同人が公園を追い出される際に紛失して了つたということで入手できなかつた。そのとき、友安が写しをとつたと思う。

(5)  当審証人天川千代子の証言(二六の一〇六六五)によると、

私は二四歳から二六歳迄の三年間(昭和四年九月三日生)、尼崎市内の松川某経営の飲食店につとめていたが、その真中の年即ち二五歳のとき秋から夏迄の一年位父に毎月一五日小遣銭を五〇〇円位渡していた。月のかかりは姉の長谷川八重子のところへ小遣銭を貰いに行つていた。父は私が小遣銭を渡すと大変感謝しながら、ポケツトから手帳を出して見せながら、お前と姉の所へ金を貰いに行つた日や貰つた金額を手帳に書いているというので、私が手帳をみると、鉛筆の縦書きで毎月一日ころ姉八重子から五〇〇円、毎月中ごろ千代子から五〇〇円と書いてあるのを見た。この手帳を父が二、三回見せてくれたことがある。父は平素生活に困りながらも日常のことをメモすることが好きな人で、ノート、厚紙、ありあわせの紙片に日常の出来事や先祖のことなどを仔細に書いていた。

というのである。

(6)  大阪市土木局長の回答書(三四の一三九一七)によると、

山本高十郎は、明治二八年一月一〇日本籍地の福井県坂井郡大関村大字大関字上関一八号五番地で生まれ、大関尋常高等小学校を卒業し、大正一三年八月二六日大阪市水道部下水課に溝渠設守夫として採用され、昭和二五年一〇月三一日依願退職するまで同一職場に勤務し、退職当時は工手A浚渫作業手として五級四五号八、三一三円の支給を受けていた旨の記載がある。

(四)  そこで、右中田いと、山本高十郎の証言の信用性について検討する。

(1)  まず、中田いとの証言についてみると、

同人の検察官に対する供述調書中には、同女が幼時脳を患つたことがあることや、被告人と眼帯の男との応答の内容として供述する部分に全く意味不明の供述記載があること、及び被告人の不在の時期につき、その眼帯の男と一緒に出て行つてから、一週間帰つてこなかつたと供述し、被告人の自供と対比すると、被告人の不在は一〇月初旬から一週間位であつたような供述部分もあり、また右公判証言中には同人が被告人と天王寺公園の小屋で同棲しはじめた時期、終期等についても記憶の薄れが目立ち、被告人が小屋を不在にした日数についても当初は二、三日だけだつたと供述するなど、同人の認識、記憶、表現能力に問題があることが窺われるが、同証人は本件発生当時の時期における被告人との関係からみて殊更被告人に不利なことを供述しなければならない立場にはなく、被告人の小屋で同居していた間に一度丈け一週間位帰らなかつたことがあり、被告人が帰つて来ないのに不審を抱き、隣に住む山本高十郎にその行先を尋ねたこと、その日を中心にして、前後二、三日被告人が不在であつたこと、山本に尋ねたとき、同人は娘の所へ金を貰いに行く日であつこと、被告人が帰つて来た夜不知の男性から泊めてくれと要求され当惑していたことなどの点は、検察官に対する供述以来ほぼ一貫して供述しており、その供述内容は、概ね山本の証言とも符合しており、さらに被告人と同棲していた中田いとが被告人の存否について強い関心や記憶をもつのは当然で、帰宅時の状況にしても、女性として当惑した経験でたやすく忘れえない出来事であることにかんがみると、同女の知能の程度や記憶の減退を理由に一概に且つ全面的に信用性を否定するのはやや早計の謗りを免れず、むしろ隣人の証言よりは高い信用性を有するものと考えるのが相当である。

(2)  山本高十郎の証言についてみると、

本件発生当時の被告人との関係から、右山本も被告人に不利益なことを証言しなければならないような立場にはなく、同人は被告人の小屋の隣りに居住していたもので、隣人の動静についての供述ではあるが、中田いとから「うちのオツサンこの二、三日帰つて来んが心配や」と尋ねられ、そのときは娘の所へ金を貰いに行くときであつたというのであつて、記憶に残る出来事であつたと思われること、昭和三〇年一〇月二五、六日ころ被告人の供述の裏付捜査にきた友安、熊本にもその旨供述していたこと、同人は昭和二九年頃から天王寺公園でバタヤ生活をしていたものであるが、同人の過去の経歴等にかんがみると、当時バタヤ生活をしていたからといつて、同人の資質に問題があるとして同人の証言を一概に排斥し難いものがある。

しかしながら、同人の証言中には「被告人とは昭和二九年八月、被告人が天王寺公園の図書館前の小屋に私を訪ねて来て知り合つた。同月二四日其処を退去させられたとき、被告人とは帰るからといつて別れ、その後昭和三〇年三月か四月ころ、茶臼山で被告人に会つた。私が『ニイサン久し振りだね』というと、被告人は『私も帰つていたが、また来た』と言つた」と恰かも昭和二九年八月二四日天王寺公園で被告人と別れてから、昭和三〇年三、四月ころまで交渉はなかつたかのような供述部分があるかと思うと、その直ぐ後の質問に対しては「私は八月二四日の立退後直ぐ帰つて、図書館の坂の下に小屋を建て、被告人もその傍らに小屋を建てた」旨前後、矛盾、そごするようなものがあり、また、被告人が天王寺公園の小屋に居なかつた時期についても「一〇月一五日娘千代子方に金を貰いに行つたが、千代子は居なかつた。そのとき被告人も居なかつた」旨被告人の不在の始期が一〇月一五日ころとも解せられるようなものがあり、さらに被告人から、証人が尼崎の娘さんの所へ行つて主人が不在であつた旨話していたのは何時ですかとの質問に、それは昭和二九年七月でしたと答え、被告人との初対面以前の時期に被告人と話したことがあるという前後矛盾した供述部分が存し、同人の認識、記憶、表現力に疑問を抱かせるものがあること、また山本の証言中被告人が小屋を不在にしていた終期についての証言部分は中田いとの証言や、被告人の自白と四、五日の相異があつて、それだけ被告人の不在日数が多くなること、さらに、同証人は中田いとから、被告人の不在を尋ねられた日は一〇月二四日で、その日には娘千代子の所へ金を貰いに行くときで手帳に書いてあつたから覚えているというのであるが、山本が娘から小遣銭を貰つた日時、金額を記帳するということは敢えて異とするに足りないが、小遣銭を貰うことができず、徒労に帰した一〇月二四日の事実まで記帳していたということは、同人が毎日の行動や出来事を確実に日記風に記載していたという証明のない限り、にわかに信用できないところというべく、成るほど、同人の証言によると、昭和二九年四月頃から月日を追つて毎日自分のしたことを記入していたというが、同証言によつても、その具体的説明がなく、ことに一〇月二四日欄に同証人が証言することをどのように記載してあつたのかについての具体的な供述がなく、裏付捜査に赴いて手帳を見て確認したという友安の証言によれば、一〇月二四日に何か印がしてあつたという程度にとどまり、同じく熊本の証言によれば、山本の帳面には一〇月二四日娘の所で金を貰つた日を書いてあつた。山本は毎月二四日に娘の所へ金を貰いに行つていた。毎月二四日と書いてあつたというが、右証言は山本本人の証言と相異し、要するに、一〇月二四日に具体的にどのように記載してあつたのか知ることができないのである。当審証人天川千代子の証言によれば、同人が毎月中頃父に小遣銭を渡していたことがあつたことは認められても、十数年以前のことであつて、その時期が必ずしも明らかではなく、また父の手帳の記載内容に関する供述も、その見たという時期からの期間の経過等に照らし、全面的な信頼をおき難い。何よりも山本証言の信用性を決定づける最重要資料である山本作成の右手帳を領置しなかつたことはとにかくとしても、その存在並びに記載内容を証明する写真、少くとも写しさえとられていない以上、山本の証言中中田いとから被告人の不在をきいた日が一〇月二四日であつたとの部分は全面的な信用をおき難い。

(五)  被告人が昭和二九年一〇月中に大阪市城東区蒲生町の血液銀行に売血に行つた事実の有無

(1)  この点に関する被告人の供述

(イ)  証二七号捜査日誌三〇年一一月七日欄の記載によると、

昭和二九年一〇月中は供血に行かなかつたと供述していた。

(ロ)  司法警察員に対する昭和三〇年一一月九日付供述調書によると、

金に困つて昭和二九年八月一七日血液銀行に行きはじめ、その後同年九月初め、中旬、一〇月初め、同月末頃、一一月中旬、下旬、一二月一〇日頃、二七日頃というように多い月は三回、少い月でも二回は必ず血液銀行に行つて供血していた。

(ハ)  検察官に対する昭和三一年二月一五日付供述調書によると、

昭和二八年四月神戸へ行つて以来、一度も仁保へ帰つたことはないと頑張りつづけた-中略-困つたことに血液銀行について警察が調査して帰られたことです。そのため事件を起した当時血液銀行へ行つていないことが分つてしまい、どうすることもできず、とうとう仁保へ帰つたことを話した。

というのであつて、血液銀行へ行つていないことを認めていた。

(2)  右(ロ)の供述に対する裏付証拠

(イ)  松島徹の司法警察員に対する供述調書、同添付の血液銀行のカルテ写し(二の六六八)によると、

被告人は被告人名義或いは山根保名義で昭和二九年八月に二回、九月に二回、一一月に三回、一二月に二回血液銀行で売血していることが認められるが、同年一〇月には一回も売血したことの記載がないことが明かである。

(ロ)  当審証人松島徹の証言(二六の一〇七六四)によると、

売血者の採血手続は、まず、売血者は第一受付で受付票を受けとり、これに住所、氏名、年令、職業、前回採血した年月日を記入して、写真を添付して返還する。第一受付から廻された第二受付では受付票に基づいて、売血希望者の氏名を呼びあげて、前回の採血日から日が経過していないか否か、採血する方の腕と耳たぶをみて、腕の採血の針痕の新しいものや、耳たぶの傷痕の新しいものを認めた者はこの段階でことわり、これに合格すると受付票と売血者の腕に割印を押し、カルテを起し、これらを一括して診察室に廻す。診察室ではまず血液の比重検査をして、合格、不合格を決め、いずれも必ずカルテに記入していた。そして、当日のカルテに合格と不合格に区分したうえ、一括して編綴して保存していた。昭和三〇年一〇月二七日山口県の警察官が来たとき、合格、不合格の双方のカルテを編綴してあるものを昭和二九年八月一日から同年一二月末日までの分全部を出した。 というのである。

(ハ)  また、一審並びに当審証人友安敏良の証言(六の二三二二、三三の一三五四五)によると、

昭和三〇年一〇月二七日、山口署から大阪に赴き、大阪府警の補助をえて、血液銀行で、昭和二九年八月一日から同年末までのカルテ約六万枚を一枚宛点検したが、被告人、山根保名義の不合格カルテは一枚もなかつた。

というのである。

以上の証拠によれば、被告人が昭和二九年一〇月中も血液銀行に赴いたが、血が薄く血沈検査で不合格になつたため、採血カルテ等にその記載がないのだという被告人の弁解は措信し難いのである。

なお、被告人は耳たぶや腕の検査でことわられたこともある旨主張するが、右供述は起訴後六年以上を経た一審四九回公判期日(昭和三六年九月一九日)にはじめてなされたもので、それより前の昭和三二年三月四日付上申書、一審三九回公判(昭和三五年五月九日)、昭和三六年三月一五日付上申書(七の二四六四)などでは右のような供述をしていない点にかんがみ、右供述はたやすく措信し難い。のみならず、前記松島徹の証言によれば、腕や耳たぶの傷は一週間か一〇日で完治するし、また、腕の針痕の点検も第二受付は業務が多忙のため、本人が針痕のある腕を出さず、他方の腕を出した場合でも、その点検のみで通していたということであり、被告人自身一〇月を除く、その前後の月には二、三回売血に行つていた実績をもつていることに照らし、たやすく信用できない。

以上の次第で、被告人が昭和二九年一〇月に限つて一回も血液銀行に売血に赴いた形跡のないことはほぼ確実であり、そのことは他に特別の事情のない限り、当時被告人は大阪にいなかつたことを推測せしめるものである。

(六)  被告人のアリバイ主張に関する証拠

(1)  一審証人西村為男、西村君子、水谷武三郎、旧二審並びに当審証人西村まさのの各証言。

(イ)  西村為男の証言(五の一六七八)によると、

私達夫婦は昭和二九年一〇月一〇日頃、被告人の世話で大阪市内の天王寺公園の被告人の小屋から三米位離れた場所に小屋を建て、隣り合わせに住んでいたが、同年一〇月下旬頃、被告人が数日間小屋をあけたような記憶がない。バタヤなので朝、晩一、二度会わん日はないと思う。

(ロ)  一審証人西村君子の証言(五の一六九〇)によると、

昭和二九年一〇月中頃から、被告人の隣に小屋を建てて住んでいたが、被告人とは毎日一、二度は会つていた。その間四、五日間被告人を見ないというようなことはなかつたと思う。

(ハ)  旧二審証人西村まさのの証言(一四の四六八六)によると、

岡部と隣合わせに住んでいた頃、一ぺん位、一寸岡部を見なんだようなことがあつた。主人と岡部が見えんなあいうて話したことがあります。それは二日位ではないだろうかと思う。旧二審公判に証人として出頭する数ケ月前、弁護人から大阪駅近くに呼び出され、同所へ行く前夜あれこれ思い出したら被告人が二日位不在にしていたことを思い出した。   (ニ) 当審証人西村まさのの証言(二六の一〇八八三)によると、

岡部と隣合わせに住んでいた頃、被告人が二、三日顔を見せないので、隣りのおつさん何処へ行つたのかと主人と話したことがある。その後被告人がいつ帰つたのか自分も忙しいし知らない。

(2)  一審証人水谷武三郎の証言(二の四二一)によると、

私は一〇年前から近畿電気工事株式会社南支店に住込警備員として勤務している者であるが、右支店には毎日多量の廃品が出て、三日もそのままにしておくと困るような状態になる。それを市の清掃人夫にとつて貰つていたが、料金を請求するので、自分で焼いていたところ、被告人がその廃品を呉れというので、毎日取りに来ることと附近の清掃をすることを条件に許してやつた。被告人は昭和二九年の寒さに向う頃から一ケ月以上来ていた。その間一、二日問屋へ行くといつて休んだほかは毎日来ていた。

というのである。

(3)  そこで右各証言の信用性を検討する。

(イ)  まず、西村為男、西村君子の証言の信用性についてみると、右両名の一審証言は隣人であつた被告人が四、五日間も他出不在であつたという記憶はないという漠然たる内容のものにすぎず、両名が特に被告人の存否について強い関心をもつような生活上、交友上の関係があつたとも認められないので、同人らの証言によつて直ちに被告人のアリバイの主張を認める訳にはいかないし、西村まさのの旧二審の証言と対比してたやすく信用できない。また、その反面、西村まさのの旧二審証言、同人の当審証言は被告人の捜査官に対する供述の裏付になるかというと、いずれもそれは既に十数年前の隣人の動静に関するもので、その確実性に疑があるばかりでなく、同人の認識した被告人の不在期間は二日位というのであるから、一週間不在したという被告人の捜査官に対する供述を裏付ける証拠ともなしえない。

(ロ)  水谷武三郎の証言の信用性についてみると、

もともと同人の証言では、被告人が近畿電気工事株式会社南支店に、廃品回収に行つていた始期、終期が明かでなく、「昭和二九年の寒さに向う頃から一箇月以上来ていたが、妻が他に就職を勧めたところ、被告人は履歴書を出したと言つていたが、それから来なくなつた」旨の証言、被告人の旧二審における「昭和二九年の一二月二〇日頃、水谷の奥さんから、就職を勧められ、鶴元酉蔵名義で、仁保村役場から食糧通帳と移動証明書を取り寄せたうえ、一二月二五日安定所に行つた」旨の供述(一五の五四〇七、一六の六〇六三)および当審で証拠調をした証三一号1.2被告人名義仁保村役場産業課宛の書信の日付が、一二月二三日と記載され、郵便日付もまた同日となつており、書簡の末尾に同村役場において記入したと認められる「送付済29.12.25.」なる記載文言とを対比すると、前記水谷証言の「寒さに向うときから一ケ月以上」というのは、二九年一二月下旬を終期とし、それから一ケ月余り前、即ち、二九年一一月初、中旬から一二月末頃までの意味と認められ、既にこの点で水谷証言は本件犯罪時における被告人のアリバイの立証となしえない。のみならず、当審証人吉川博の証言(二六の一〇七一三)によつて認められる近畿電気工事株式会社南支店の昭和二九年一〇月頃の廃品の種類、分量、水谷武三郎の所属、倉庫関係の廃品の処分担当者に照らすと、水谷証言自体信用しがたい。

(七)  以上の各証拠を総合すれば、被告人が昭和二九年九月上旬以降、大阪市内の天王寺公園で小屋を建てて居住するようになつてから後、同年一〇月頃に四日以上一週間近く小屋を空けて不在にしたという事実にほぼ間違いないと認められるが、それが一〇月二四日を中心とした前後各数日のことであつたか否かについてはにわかに断定し難いところであつて、被告人が本件発生日の前後にわたり、当時の居住場所である大阪市天王寺公園にいなかつたという証明は十分ではない。

第二、被告人が本件発生数日前、犯罪地の仁保村附近で、三好、向山等二人の知人に出会つた事実があるか否か

(一)  被告人の供述とその変遷

(1)  被告人の捜査官に対する供述

(イ)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書(四の一二三七)によると、

昨年一〇月二一日の午後三時か四時頃、井開田井久保に出てその橋のところにある妙見の岩田がやつている製材所に行つて、丁度仕事をしていた妙見の三好という三〇才位の男に会い、仕事口を聞き、さらに、北河内から深野に養子に行つた製材職友達の岡村の消息を尋ねてみたが、それは分らなかつた。-中略-翌日午後五時前頃、山口市東山通り石観音から下がって一番初めにある製材所に寄り、主人に仕事口を聞いたが今一杯じやという答えであつた。丁度そこに小田梅一がいたので、同人に会つて働き口のことなど話し合つた。

(ロ)  検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書(四の一三一七)によると、 一〇月二一日午後三時過ぎ頃、仕事口を聞いたり製材職当時の友人である岡村の居所を聞くために、井開田の製材所へ行き三好という三〇才位の男に会つたが、同人の話では仕事口も一杯のようで、岡村の居所も知らないということであつた。翌二二日向山製材所に行つて、向山の大将に会つて働き口はないかと聞いて見たが、今一寸職人はいらんといつて断わられた。

というのであつて、これらの自供は一貫している。

(2)  被告人の公判段階での供述

昭和三二年三月二日付被告人作成の上申書(三の八三八)によると、

私は当時の取調係官が、お前は製材所に必らず行つていると言つて聞かないので、架空の人物として向山製材所の主人と、仁保の三好という人を出すことにしたのである。井久保の製材所は妙見の岩田の工場で、自分はこの工場には二回行つたことがある。一番初めは同工場がバンド鋸を掘え付けるときで、二回目は年月日は記憶しないが、岩田さん等四、五名の者が仕事をしており、大きなストーブが有つて、自分が一服していると若い人が来て、薪を入れて焚いて呉れたことを覚えている。自分はそのときのことを想い出して供述し、三好数正の弟に会つたように言つておいた。公判で会つた三好という人は顔も知らない人で驚いた。また向山製材所の主人は会つたことも、話したこともなく、他人から紹介されたこともない。また、同製材所に小田梅一がいたということであるが、若し私が同製材所に行つたとすれば、一番に小田に会つて話もしたり、親友だから一杯やつている筈である。

というのである。

(二)  被告人の捜査官に対せる供述の裏付証拠

(1)  三好宗一の証言

(イ)  同証人の一審第三回公判の証言(一の三〇九)によると、

自分は昭和一三年頃、現在の三好家に養子に来た。その養家と被告人の家とは徒歩で二〇分位の距離がある。自分が養子に来た当時、被告人の父は製材業をしていた関係で、被告人はその頃から知つているが話をしたことはなかつた。自分は仁保に養子に行つてから五年間仁保の青年学校に行つたので、青年学校で被告人を見たこともあると思う。また、被告人が仁保の製材所に働いていたのを見て知つていた。自分は二、三年前松茸の出初める頃、吉富さんに頼んで仁保井開田の豊栄製材所に、午後から半日宛三日間程働いたことがある。そこでは製材の向取りという作業をした。その中の日午後三時か四時頃、向取作業をしているとき、岡部が、名前は忘れたが誰かの名前を言つて、「誰々さんは居ないか」と尋ねたので、私はおつてないと答え、さらに「何かええことはないか」と私から尋ねると、岡部は「何もええことはない。」と言つて出て行つた。その場所は工場の入口近くで、私は仕事を五分間位止めて岡部と一米位の距離を置いて話したのである。その時岡部は黒いスキー帽を着ていたと思う、最初は岡部ということが分らなかつたが話しかけてから分つた。

(ロ)  同証人の一審第二九回公判の証言(五の一七一〇)によると、

岡部保の件では警察官から二度調べられた。一回目は自宅で写真を見せられ、二回目は警察官が田圃に来られそれから家に帰つて書類に印を押した。自分は警官に岡部が来たということだけ話し、日時は製材所の日誌に書いてあるでしようと答えておいた。その日時の点について警察官から誘導するような聴き方はなかつた。前回の証言後、岡部方の家人に「心にそまんことを言つて相済まんことをした」と言つたようなことはない。ただ「岡部さんに会つたことを言わなければよかつた。」と言つたのである。会つたことは会つたのだが、向い合つている仲でこんな所に来るのは人目が悪いからである。豊栄製材所に三日間働いているうち山に木出しに行つた日もある。しかしそれが何日だつたかは記憶にない。山に行かない日は製品の整理をしていた。

(ハ)  同証人の旧二審証言(一一の三九五三)によると、

自分は一六歳の頃三好家に養子に来た。被告人を知るようになつたのはそれから後である。自分が青年学校に行つているとき、被告人がその青年学校に行つていたかどうか記憶にない。しかしその頃は岡部の顔は良く知つていた。よくは分らないが現在の岡部の顔と昔の顔とひどく変つてはいないと思う。日時は良く記憶しないが豊栄製材所に三日間働いたことは相違ない。その時、被告人が誰かの名前を言つてその人はいないかと尋ねて来たこと、自分がそういう人はいないと答えたことがある。それは三日働いた日のうち中の日だつたと思う。製材は二人でも出来ないことはない。あの時自分は板の整理をしていたと思う。その時誰が向取りをしていたか覚えていない。被告人が来た時は自分が板の整理をしていたから、工場の二、三米前まで行つて被告人と立話をした。栗林等がいたとすれば見えている筈である。若し栗林がそれを知らないとすれば、同人は山に仕事に行き、自分は残つて板の整理をしていた時に来たのかも知れない。自分も栗林と山に行つたこともあるが、それが何日かまた何回行つたかも覚えていない。警察官が二回目私を尋ねて田圃に来たときは、稲はもう刈つて田鋤の後の掘上作業をしていた。この掘上作業は、一〇月頃から同月末までにやるもので、一二月頃にすることはない。豊栄製材所で被告人と会う前被告人に会つたのは、同人が製材の仕事をしている時であつた。しかしそんなに度々会つたのではない。豊栄製作所のときは直ぐ岡部であることがわかつた。

というのであつて、一審、旧二審に亘る前後三回の証言の骨子をなす、岡部来訪の日時、場所、会話の内容は一貫しているのであるが、仁保青年学校に通学中被告人も同校に通学していて見知つたのか否か、また、被告人が本件犯罪発生前、豊栄製作所に訪ねて来たとき、同証人が向取作業をしていたのか板の整理をしていたのか、一審証言と旧二審証言との間に相違があり、ことに旧二審の証言の際は、検察官、弁護人、裁判長の質問に対し、応答しない場合が三〇回を超え、また、記憶しない旨の答も多数回にのぼり、渋滞の跡が顕著であり、それが年月の経過に伴う記憶減退の故か、あるいは一審最初の証言後、被告人より書信を受取つたことによる心理的影響の故か、いずれにしてもその証言態度には疑を容れる余地があるのである。

(ニ)  ところで同証人の当審証言(二八の一一五九五)では、

自分が三好家に養子に行つたのは宮野の尋常高等小学校を卒業した数日後のことと思う。戸籍上昭和一一年養子に行つたことになつているとすれば、その頃と思う。養子に行つてから直ぐ仁保青年学校一年に入つた。自分の養家と岡部の家は直線で五、六百米離れているが、養家から岡部の家は見える。自分が仁保の青年学校一年生のとき、岡部を同校の校庭で見受けたことがある。岡部はその頃同校の研究科ではなかつたかと思う。研究科というのは青年学校五年を終えてから行くのである。私が青年学校で岡部を見たとき、岡部は青年学校の制服を着て教練を受けていた。岡部の父は移動製材業をやつており、私方から直線で五〇米位離れている妙見公会堂附近で、四、五日間製材をしていたことがあり、岡部保がその手伝をしているのを見たこともある。その際私は両名に挨拶したこともある。その外にも岡部が妻を離婚したということや、同人方の飼牛が盗まれたと言つていたが、後でそれは岡部保が連れ出していたのだということが分つたという話を聞いたこともある。また自分は昭和二六年頃、一時、仁保興産という酒場のあつた所の製材所に働いたことがあるが、その後、岡部保が、同製材所に元押として働いていたのを見たこともある。岡村忠義というのは、私の妻の姉婿で製材業や大工をしていたことがあり、自分が向取りとして岡村に雇われ働いたこともある。自分は岡部から手紙や葉書を二、三通受取つたことがあるが、その手紙を見て、私がつまらんことを言つたばかりに、こんな目に会うといつも情ない思をしている。しかし、豊栄製材所で岡部に会つたことは間違いない。と証言し、岡部を知るに至つた経緯や岡部のその後の風評等同人に対する関心につき、かなり具体的にかつはつきりと供述し、旧二審などの証言態度と趣を異にするところが見受けられるのである。

(2)  三好証言に関連する証拠

(イ)  一審証人吉富豊彦の証言(八の三〇七五)によると、

自分は、元岩田の主任として会社組織で経営していた製材工場を引受け、昭和二七年頃から豊栄製材所を経営している。昭和二九年一〇月二一日頃から三日間、三好宗一を雇つたことがある。それ以外に同人を雇つたことはない。仕事の内容は向取りであつた。工場の作業場は事務所から五〇米位離れている。外来者が工場に入つて行くのは、気を付けていないと事務所にいる者には分らない。岡部は見たこともないし知らない者である。同人が昭和二九年一〇月頃、工場に来たことは知らないし聞いたこともない。

(ロ)  一審証人栗林正の証言(五の一七二一)によると、

自分は昭和二八年頃から昭和三三年五月頃まで、豊栄製材所に勤めていた。昭和二九年頃、中野がやめた後二、三日間三好宗一が働いたことがある。昭和二八年にも二九年にも岡部が豊栄製材所に訪ねて来た記憶はない。外来者があれば仕事場から分らんことはないが、私のところからは帯鋸が陰になつて分らない。しかしその外来者が向取りと話をするような場合は私には直ぐ分る。三好が働いていたとき、そのようなことがあつたかどうか記憶にない。また三好に外来者の名前など聞いたこともない。豊栄製材所で働いていた藤井という女性は、場内整理の仕事をしていたが、時々は向取りもしていた。

(ハ)  一審証人藤井マサ子の証言(五の一七五九)によると、

自分が豊栄製材所に働いていた昭和二九年秋頃、三好宗一が一寸働いていたことがある。仕事は向取りだつたと思う。私はこわ(木端)の整理をしていた。栗林さんは材木を押す職人である。製材の仕事は三人いなければ出来ないということはない。岡部は今初めて見る人で、三好が働いていた当時岡部が来たことは全く知らない。外来者が入つて来て私達三人のうち誰かに話しかければ、他の二人にも分ると思う。

(ニ)  一審証人奈良定菊江の証言(五の一七八一)によると、

自分は、昭和二九年四月から翌三〇年三月まで豊栄製材所で働いていた。自分が仕事をしている事務所から、工場の鋸のあるところの見透しはきかない。しかし表の入口から入つて来る人は見える。岡部は知らない人であり、豊栄製材所に来たということは全然知らない。藤井は製材の下働をしていたが向取りもしていた。製材は一人では出来ず向取りが必要で大抵三人でしていた。証六号の日記帳は豊栄製材所の昭和二九年度のもので、出勤状況が記載されてある。この日記帳の中の一〇月一一日の「三好さん、中野さんの代人として今日より来社」と書いてあるのは私の筆蹟であるが、一〇日二〇日、一〇月二一日、一〇月二二日の「三好午後来る」「三好午後」という記載は、私の筆蹟ではなく吉富社長の筆蹟と思う。当日私は休んでいたのではないかと思う。一〇月一一日以後一時三好の記載のないのは、その間三好が来なかつたためと思う。社長は万年筆で書き私は普通のペン先にインクをつけて書いていた。

というのである。

(ホ)  ところで証第六号の日記帳によると、

同帳簿には、栗林、中野、藤井等豊栄製材所の従業員の出勤状況、業務関係の人の往来、製品の注文、発送等が記載されてあり、その大部分の筆蹟は奈良定証言のとおり同女の筆蹟で、一〇月一二日、一三日、一〇月二〇日、二一日、二二日の記事は別人の筆蹟であること、

が認められ、

(ヘ)  当審において証拠調をした山口市立仁保中学校長作成の回答書(三五の一四六七三)、山口県警本部長作成の回答書(三四の一三九五三)によると、

三好宗一は、昭和一一年四月仁保青年学校に入学し、昭和一六年三月二〇日同校本科五年を卒業したこと、被告人岡部は、仁保尋常高等小学校卒業後、同校附設の公民科二年を終えさらに青年学校一年に進み、昭和一〇年四月(正確には三月か)第一学年を修了し、その後は青年学校に通学していた形跡がなく、三好証人と被告人が、同じ青年学校に通学していた時期があるかのようにいう三好証人の証言は記憶違いであること、

が認められる。

(3)  向山寛の証言

(イ)  同証人の一審証言(一の三二〇)によると、

後ろの席にいる岡部は知つている。同人は今から五、六年前、山口市権現山の下の石川木工所に働いていた。当時私は商売のことで同木工所に行つて岡部と知合になつた。その後昭和二九年頃、山口市石観音の私の工場向山製材所に岡部が来たとき会つたことがある。それは山根保一家が殺された事件の起きた日より、二、三日前の昼一一時頃である。その時職人の小田梅一は鋸の目立をしており、被告人は私に「えゝことはないか」と言つたが、使つて呉れとは言わなかつた。被告人はその頃仁保にいると言つていた。その時それが岡部だということは忘れていたが、考えてみて後で岡部だと思い出した。その時同人の服装は地下足袋を履き、弁当箱位の大きさの風呂敷包を腰につけていたこと以外は詳細に覚えていないが、仕事にあぶれた格好でみすぼらしい様子であつた。岡部に会つたのは製材所の前の材木置場の前で、岡部は立つたたま私は腰を掛け二、三尺離れて話をした。そこから小田梅一が鋸の目立をしていた所とは大部離れていためで、小田は多分気がついていないであろう。岡部がいたのは一〇分間位だつた。石川で二、三回会つた程度ではあるが、岡部に間違いないと思う。今見れば、当時より色も白くなり肥えて人相も違うようである。その時も岡部だと思つたが岡部であつたと断定はできない。見違いがあるかもわかりません確定はできない。判然したことは言えない。小田はその日から二、三日前に雇い、一〇月二五日頃常傭にした。

(ロ)  同証人の旧二審証言(一一の三九七八)によると、

自分は、昭和一九年頃から石観音で製材業をやつている。被告人は同人が日進製材所で製材工をやつていた当時、同製材所が売りに出たのを私が買いに行つたとき知つた。自分は同製材所を従業員と共に譲り受ける気であつた。日進製材には二回行つたが、最初のとき同製材所の主人から、あれが向取り、これが岡部というように教えられた。また使用人の名札も掛つていた。しかし直接岡部と話合つたことはない。それは昭和二五年頃のことで、石川が日進を買い取つて石川木工所を経営する前のことである。石川木工所で岡部を知つたという一審証言は、誤りであつた。その後被告人が私方の工場に来るまで、同人に会つたことはないと思う。日時ははつきり記憶しないが、仁保の六人殺しの事件が起きた日から、五日前位に小田が私方の製材所に働きに来るようになり、またその仕事より三日前位に岡部が訪ねて来たので、そのことを小田に話したように思う。それは岡部が帰つた後である。小田は岡部が来たとき、向うを向いて鋸の目立をしていたので見ていないと思う。小田が誰か来たのかと尋ねるので岡部が来たことを話した。岡部には、小田が勤め出して間がなかつたので、今この人がいるから雇われんと断つた。日進製材で岡部を見ていたので、岡部が私方工場に来たときには分つたが、そのときは色も黒く痩せていたのに、今被告人を見ておかしいと思う。この人ではないようにも思われる。一審のときも色が白く肥えていて人が違うかと思つた。岡部が私方工場に来たということが警察に知れたのは、警察が事件後その犯人を探していた当時、小田梅一を調べに私方へ来た際話に出たのではないかと思うが、その日時は記憶しない。岡部が私方工場に来たときは菜葉服を着て弁当箱を持つていた。私は大怪我をしたり病気をして現在記憶が悪くなつている。

(ハ)  同証人の当審証言(二九の一一七七二)によると、

自分が向山兄弟商会という合資会社を作り、製材を始めたのは昭和二五年頃のことと思う。その頃日進製材所が売りに出て、弟と二人でそれを買いに行つた。建物、機械など設備を全部買取る考えであつた。その時米村と金主らしい婦人に会つた。工場の中には二、三人の製材工がおり、そのうちからこれが岡部という職人だと教えて貰つたし、名札も下つていた。製材所では製材職人の技術の一番重要なので目にとまつたのである。その時の岡部は色もあまり白くはなく、黒い方で角形の顔であつた。日進製材と私方と取引があつたかどうかは弟でないとわからない。日進との売買交渉は値段の点が纒らず、結局石川が買い取つたということである。この石川木工所とは取引があり二、三回行つたこともある。仁保の六人殺しの事件は二六日の新聞号外を見て知つた。岡部が私方工場に来たのはその事件より二、三日前のことと思うが、確かな日時は覚えない。その時、自分は木切れを扱つていたと思う。岡部とは製材鋸の前で話をした。話の内容は今記憶しないが以前証言しているとおりだと思う。岡部が来たとき工場には小田梅一も私の妻もいた。小田は背を向けて鋸をグラインダーで摺つて居り、妻は小さい鋸で木を揃えて切つていた。同人等が岡部を見たかどうかはわからない。グライダーは大きな音がするので話声は聞えないと思う。小田には「今岡部が来た。」と話した。小田がそれにどう答えたか記憶しない。またそのことは家内にも話した。昭和三八年の証言の内容はもう記憶しない。私が製材で片手をもぎ取られ大きな打撃を受けたのは、昭和三五年でそれから一年半も入院していたので、昭和三八年の証言よりは昭和三一年の証言の方が確実であるが、昭和二九年一〇月私方に来た人は岡部に間違いない。甲八の26(三四の一三九六〇)、甲八の28(当裁判所証四七号)の写真の人物は岡部保であり、同人が私方に訪ねて来た時の顔形に良く似ている。特に甲八の28の方が良く似ている間違いないと思う。岡部が私方工場に来たときと、日進製材所で同人に会つたときと顔形は余り変つてなかつた。ただ私方工場に来た時の方が少し痩せていた位だつた。一審や前の二審のときは色が白く肥えていて人相がまるで変つていた。証三三号の日給月給支払帳は、私の書いたもので、同帳簿に小田と書いてあるのは小田梅一のことであり、同人に対する日当の支払が記載されている。証三四号の帳面も私が書いたもので、それは出勤簿のようなものである。小田を本採用にしたのは一〇月二三日からである。それまで四日位鋸の目立をしていたと思う。その間は金を払つていないから書いてないので良く覚えない。小田が私方に働いたのは昭和三〇年一月二七日が最後である。それから小田は来ていない。従つて仁保事件が起きて一年後の頃は、小田はもう私方には来ていないし会つたことはない。

というのであつて、一審証言は岡部が同証人の工場に来たという時から、二年以内の時期の証言であるが、その来訪者が岡部であつたという確言は避けているのに、右時点から九年近くを経過した旧二審、一七年余を経過した当審においては、比較的明確に、それが岡部であつたことを証言しているのであつて、その証言の経過に若干の疑もあるのである。

(4)  向山証言に関連する証拠

(イ)  一審証人石川時政の証言(五の一七〇一)によると、

自分は昭和二六年頃から石川木工所を経営しているが、岡部保を雇つたこともないし、同人が私方に出入りしたこともない。向山寛は製材所を経営しており私方にも出入りしていた。

(ロ)  当審証人米村稔の証言(二九の一一七二五)によると、

自分は昭和二二年八月頃から、山口市樋口通り権現山の近くで、日進建設有限会社、その後は日進建設株式会社の組織で机、腰掛類を製造していたが、昭和二三年夏頃、防府の同業者が倒産した際、これを譲り受け、その機械設備の一部は他に転売し、製材機などは日進の工場に移設して自家用資材の製材を始めた。岡部保は、日進が譲り受ける前から防府のその工場で、製材機械を担当していた人だと思つている。日進が防府のその工場を買うについても、岡部が口をきいて、銀行債務を肩替りするという条件だけで好条件で買い受けることができるので、岡部をそのまま雇い入れ、製材機の移設も同人に一任したこともあり、その記憶は充分である。岡部は私の工場でも製材を担当していたが、同人がいつやめたかは、自分が病気で長く入院していたので記憶していない。向山寛は製材業をしていたので取引があり、材木を持つて来たり集金などに来ていた。日進建設は、私の入院中に欠損を生じて負債は増加し、一二月には解散し建物や設備は債権者に差押えられたが、そのまま使用していた。その後工場は石川という人に引き継いだ。向山の方で負債の取立のために、倒産後の私方の工場を買い取るという話は聞いたことはあるが、私の方に金が入るわけではないので、余り関心は持つていなかつた。後ろにいる人はすつかり変つているが、面影はあり岡部と思う。

(ハ)  小田梅一の検察官に対する昭和三一年四月一六日付供述調書(三の一〇九一)によると、

私は昭和二九年一〇月二〇日か二一日頃から昭和三一年一月末頃まで、向山製材所の製材工として働いていた。仁保の山根保は遠縁になるが右製材所で働いている時、山根方一家殺しの号外を見て驚いた。その時より少し前の日だつたと思うが、向山製材所の主人が同製材所の休憩室で、「二、三日前職人が来て使つてくれと頼んだが、自分のところには貴方がいるので、今のところ職人はいらないと言つて断つた。」と話されたので、「それは誰ですか」と尋ねると、「仁保の岡部という男だ。」と言われた。岡部は自分が刑務所に入つているときから知つており、同人は製材工として良い腕を持つているので、「あれなら上手ですが」と話した。岡部が来たという頃には、私は向山製材所で鋸の目立をしていたが、その場所は工場の奥の方で、しかも入口の方を背にしてやかましい音を立てながらするので、岡部の姿は見ておらず、もちろん話もしていない。

(ニ)  同人の一審証言(一の三二七)によると、

私は山口刑務所在監中、被告人と一緒に製材の仕事をしていたので被告人を知つている。私は昭和二九年一〇月一三日か一五日頃から昭和三〇年二月初め頃まで、向山製材所に勤めていたことがある。それは同製材所の前を通りかかつた際、鋸の目立をして呉れと言われ、それでは明日から来ましようということで勤めるようになつたのだ。山根方一家六人が殺された事件は、その日の朝一〇時頃新聞号外を見て知つた。当時私は向山製材所に勤めていた。同製材所の主人から、岡部が仕事をさせて呉れと言つて来たこと及び職人を雇つているからといつてそれを断わつたということは、後で聞いた。岡部の事が新聞に出てからそういう話が出たのである。それは岡部が製材所に来た当時のことではない。そのとき岡部が逮捕されていたかどうかは知らないが、岡部の名が新聞に出たとき初めて聞いた。

というのである。

右(イ)ないし(ニ)によると被告人岡部は、昭和二三年頃日進建設が、防府の同業者の機械設備を買収した際、日進建設に移り同会社で製材部門を担当していたこと、その後右日進建設もまた経営に失敗して倒産し、一時向山製材所においてこれを買収するという話もあつたが、結局石川時政においてこれを買収し、石川木工所として経営するに至つたが、被告人は右石川木工所とは全然関係がなく、石川時政も被告人とは全く不知の間柄にあること、及び小田梅一の供述は、時期的にみて約三箇月の相違があるに過ぎない検察官調書と一審証言との間に、かなり顕著な供述の変化があつて、同人が向山製材所に働くようになつた始期や同人が向山寛から岡部来訪の事実を聞知するに至つた時期について、明らかに異なる供述をしているのであつて、その理由につき納得し難い点があるのである。

(ホ)  そこで当審押収にかかる証三三号日給月給支払帳及び証三四号覚帳等を検討するに、これら帳簿によると、

向山製材所においては小田梅一に、昭和二九年一〇月三一日金四、〇〇〇円、同年一一月三〇日金三、〇〇〇円、一二月三〇日金一万八、〇〇〇円の各賃金の支払をしている事実及び小田梅一が、昭和二九年一〇月二三日から昭和三〇年一月二七日までの間に出勤した日が記載されていることが認められるが、右期間の前後には小田出勤の記載がなく、帳簿の上のみからすると、小田が向山製材所に働いた初日は、昭和二九年一〇月二三日であると認めざるを得ないこととなるのである。

(三)  以上の各証拠の外本件記録中の各証拠を総合判断すると、

(1)  検察官主張のように、三好宗一が昭和二九年一〇月二〇日から二二日まで、いずれも午後半日宛、仁保村井開田井久保にある豊栄製材所に働き、向取りなどの作業に従事したことがあること、右豊栄製材所は、元仁保村妙見部落の岩田某が経営していた設備を、吉富豊彦が引継ぎ経営したものであることは疑がなく、三好証人の証言中、同証人が仁保の青年学校で被告人岡部と共に在学していた時期があるようにいい、あるいは、同校で被告人が青年学校の制服姿で教練を受けているのを目撃したという証言部分は、前記仁保中学校長作成の回答書等と対比し、俄かに採用し難いが、同証人が、戸数も少なく人の移動も少ない農村地帯で、しかも被告人の生家から、直線距離で五、六百米の視界内にある三好家に養子に来て、当時移動製材という特殊の職業に従事していた被告人を見知り、その後軍隊歴や警察官歴を有する被告人に、普通人に対するそれ以上の関心を持つていたとしても決して異とするに足らず、また仁保興産跡の製材所で、被告人が働いていたのを見たという三好証言も、被告人の検察官に対する供述調書(四の一三二一)中に被告人の経歴として、昭和二七年一二年二五日刑務所から出所して後、昭和二八年四月まで、右製材所に勤めたことがあるという供述記載のあることと符合し信用するに足り、同証人が被告人岡部を見誤るようなことはないとも考えられるのであるが、他面その証言中には、昭和二九年一〇月豊栄製材所に来たという被告人の服装につき、黒いスキー帽を着ていた旨、被告人の自供とはくい違い向山証言中には認められない特異な服装を供述している部分や、被告人が豊栄製材所で同証人にその消息を尋ねたという岡村は、三好証人の妻の姉婿に当り熟知の間柄にある岡村忠義のことと考えられ、聞き洩らす筈はないと思われるのに、「被告人は誰かの名前を言つてその人はいないかと尋ねた」とのみ証言し、また一審では「被告人が豊栄製材所に来たときは、自分は向取作業をしていた」と証言していたのに、旧二審では、「栗林さんが岡部の来たことを知らないというのだつたら、同人は山に行き自分は残つて板の整理をしていたときに来たのかも知れない。」と言葉を濁すなどやや不確実であいまいな証言部分もあること、さらに当時豊栄製材所の従業員であつた吉富、栗林、藤井、奈良定等の何人からも岡部来訪の事実を裏付けるような証言の得られないことなどをあわせ考えると、三好証人一人の証言に全幅の信頼を措くわけにもいかないのである。

(2)  次に、向山寛が昭和二五年頃から山口市石観音において製材業を営んでいたこと、その頃、被告人が日進建設株式会社に雇われ製材部門を担当していたこと、その後日進建設株式会社倒産の際、向山寛がその設備を買収しようと考え、二回に亘つて同会社の工場に赴き工場内を検分した際、売主側から製材担当者である岡部を紹介されたという事実は、証拠上これを認めるに足り、また向山証人の証言や小田梅一の検察官調書を総合すれば、本件犯罪発生二、三日前に、被告人岡部が向山製材所に訪ねて来たという事実は、これを肯定して差支えないようにも考えられる。しかし他面、向山証人の当審証言は、既に一七年以上の日時を経過した後の証言であるにかかわらず、一審証言や旧二審証言よりかえつて全般的に明確かつ断定的な証言であることに不自然な感を免れないこと、向山証人が被告人岡部を知つたという経緯が、比較的単純かつ間接的で直接被告人と話し合つたことはなく、しかもその後は会つたことも話したこともなかつたということなどを考えあわすと、同証人の証言の信用性、確定性にも一抹の疑いなしとしない。

(3)  以上要するに、被告人が本件犯罪発生前の一〇月二一日頃、仁保村井開田の豊栄製材所を訪れて三好宗一に会い、またその翌二二日頃、山口市石観音の向山製材所を訪れて、向山寛に会つたという事実は、被告人の公判段階における否認弁解にもかかわらず、ほぼ間違いないようにも考えられるのであるが、三好、向山証人以外にはその頃被告人を目撃したという者はなく、その後二三日以降本件犯罪までの数日間についても、被告人は郷里の仁保村周辺の地を徘徊したと捜査官に自供しており、同地域には被告人を見知つている者もすくないと思われるのに、被告人を見かけたという者はなく、前後五日間を超える徘徊中、被告人を見かけたという者は、結局三好、向山両証人以外にはいないことを考えると、右両証人の証言に全幅の信頼を措くことは困難で、その証言により直ちに、それより数日後に発生した本件犯罪と被告人を結び付けるわけにはいかない。

第三被告人が本件犯行数日前、徘徊した経路として供述した内容には、当時被告人が現にそのような行動をしたのでなければ知り得ない情況が含まれているか否か(最高裁差戻判決の指摘する三点について)

(一)  堀駅前のルーフイング葺の小屋について

(1)  被告人の捜査段階における供述

(イ)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書によると、

昭和二九年一〇月二〇日朝七時頃、大阪駅を出発し、同日夜三田尻に着き、それから左波川沿いに歩いて堀迄来た。着いたのが午後一〇時過頃だと思う。それから堀駅前の木函工場の所の木の積んである中で寝た。

(ロ)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月二〇日付供述調書によると、

三田尻に着いたのが午後七時半頃で、それから防石鉄道の線路を伝うて歩き、夜の一一時か一二時頃堀に着き、駅前の木函工場の材木の間に寝た。

(ハ)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月二五日付供述調書によると、

夜一二時過頃に、堀駅前の材木の間に寝た。

(ニ)  検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書によると、昭和二九年一〇月二〇日午後七時頃、三田尻駅に着き、防石鉄道の線路伝いに堀へ上つて行き、堀駅の上手の材木置場の木の間で寝た。

(ホ)  司法警察員に対する昭和三一年一月二三日付供述調書によると、

以前の取調べのとき、私が昭和二九年一〇月二〇日夜寝た所を堀駅前と申しましたが、あれは駅の真前でなく、北側にあたる構内で材木等が積んである所で、その近くには三〇米位離れた所に小屋があつたのを記憶しております。それで私が寝た所は小屋と農協との中間辺であります。その小屋は黒いような紙のような物に何か塗つたもので屋根が葺いてあり、臨時に建てた小屋のように感じました。寝るときにはそんなことは分りませんでしたが、朝よく見て分りましたから、記憶があります。

駅の前といいましたのは駅の建物の横側にも出入口がありますので、そのように申したのでありますが、正確にいえば、駅の横手にあたる。駅の真前の方は旅館や店等があることはよく分つている。

木函工場と申しましたのは駅の上手の農協の横のあたりに板が沢山積んであつた記憶があつたのでそのように申したのであります。

というのであり

(ヘ)  昭和三一年三月二二日検察官録音の内容は前記(ニ)の供述とほぼ同旨。

(ト)  同年一月二一日付被告人作成の図面によると、その内容は前記(ホ)の供述とほぼ同旨(但し、小屋の屋根が黒い色であつたとの表示はない。)

(2)  被告人の右供述に関する裏付証拠

右(ト)の図面の外、一審証人森岡正秋の証言(六の二二五九)、司法警察員作成の電話聴取書三通(六の二二三六-三九)、旧二審検証調書(一一の三七六七、一三の四四六七)、当審証人渡辺繁延の証言(三四の一三八三五)によると、

被告人が一〇月二〇日夜寝たという場所は、防石鉄道堀駅構内の北側材木置場の中にあたり、その翌朝見たという屋根を黒い紙のようなもので葺いた小屋というのは、それより更に約三〇米北方にあたる森岡正秋方居宅にあたり、同人は昭和二八年七月頃、従前の黒いトタン葺の屋根をルーフイング葺に替えたこと、付近には他にルーフイング葺の家屋が存在せず、同人方前に当時杭木が沢山置いてあつたことが認められ、右供述は客観的事実と符合している。

(3)  ところが、被告人は一審以来、右(1) の捜査官に対する供述は自分が昭和二六、七年頃、山口市内の増本建設(鴻城土建と同じ)に働いていた当時、同会社がキジヤ台風後、応急住宅を堀付近に建てたことがあり、その住宅の屋根がルーフイング葺であつたことを思い出し、終戦前堀警察署に勤めていた頃の状況とも合わせ考え供述したのであると本件とは別の機会に得た過去の知識を基礎にして架空のことを供述した旨弁解している。

しかしながら、山口県社会課長作成の回答書(三四の一三九二〇)および当審証人藤村宗之助の証言(二九の一一九八五)によると、被告人が昭和二六年春頃から翌二七年夏頃まで、鴻城土建株式会社に雇われ、製材工として働いていたこと、その間昭和二六年七月頃、右鴻城土建は外の二社と共に、山口県から佐波郡出雲村の堀、小古曽、伊賀地、岸見等の地区の災害応急仮設住宅三〇戸(各社一〇戸宛)の建設を請負い、同工事は同年八月一日竣工したのであるが、右住宅の屋根はすべて杉皮葺であり、しかも鴻城土建は堀地区の応急住宅は請負つていないことが認められる。従つて、右仮設住宅の屋根がルーフイング葺であつたことを思い出して架空のことをいつた旨の被告人の公判供述はその根拠を欠き措信し難い。尤も、前記藤村証人は昭和二六年秋頃、山口県岩国市近郊の錦川流域に災害住宅を建設したことがあり、その住宅の屋根はルーフイングであつて、被告人もそれを見る機会があつた旨証言するが、右災害住宅の工事内容等必ずしも明確でなく、にわかに措信し離い。

(4)  ところで、最高裁差戻判決は、被告人の右(1) の捜査官に対する供述が事前に現地に臨んだ警察官の誘導によるとの疑念を禁じ得ないと指摘しているので、この点を検討する。当審証人渡辺繁延は、

私は被告人の供述の裏付け捜査のため堀駅付近に四回行つたことがある。

第一回目は昭和三〇年一二月二七日で、その前の二〇日上司の木下警部補から、被告人が堀駅近くの木函工場で寝たと供述しているから、右工場の所在、被告人が同所に寝た事跡があるかどうかを調査せよとの命を受け、田中久巡査と共に堀駅付近に赴き捜査した。木函工場は堀駅前の農協付近にあつたと思うが、経営者が既に死亡していたことなどから詳しい捜査ができず、被告人が同所付近に寝たことがあるか否かについて聞込を行つたが、何ら裏付資料がえられなかつた。

第二回目は同年同月二九日と三〇日である。前回の捜査で被告人の供述を裏付ける資料がえられなかつたので、二九日頃、更に被告人を木下警部補と共に取調べ、被告人が寝た場所について図示説明を求めたところ、堀駅の佐波川寄りの材木置場の中にある小屋を図に書き、前回木函工場といつたのは、この小屋である旨説明した。

そこで同月二九日(同日は他地を捜査)、三〇日右図面を携行して現地を調べたところ、その小屋というのは材木置場の西寄りにある一戸建ての一坪以内の風呂小屋に相当し、狭くてとても人が寝られない状態であつたが、念のため、所有者の森岡正秋に昭和二九年一〇月二〇日誰か人が寝たことがあるか否かを尋ねたが、分らなかつた。右一、二回の捜査のときは、木下から黒い紙で葺いたような屋根についての捜査は指示されていなかつたので、現地でも目にとまらなかつた。

第三回目は昭和三一年一月二二日である。それまでの捜査では被告人がいう場所は風呂場であり、寝られない状況であつたので、さらに一月二一日木下と共に、被告人に寝た場所の図示説明を求めたところ、被告人は堀駅の北西側の材木置場の中程の材木の間に寝た旨供述し、その場所を図示した。このとき、被告人が翌朝黒いような紙のようなもので葺いてある小屋を見たと供述して、図面の寝たという場所から、佐波川寄り約三〇米位の位置に小さい小屋と書き込んだので、木下の指示により、翌二二日田中巡査と共に現地へ捜査に行つたところ、被告人が寝た位置は材木置場の中程で、杭木の間に寝られる場所があり、付近にこもがあつた。また黒い紙の屋根というのは森岡正秋方居宅の屋根であることがわかつた。そしてその結果を上司に報告した。

第四回目はその翌日頃、木下から、森岡方の屋根をルーフイングにした時期を捜査するよう命ぜられ、同月二四日私と田中巡査が堀に行き、森岡正秋を取調べで調書を作成した。

というのである。

右経過からすれば、昭和三一年一月二一日被告人を取調べ、図示させたときおよび同月二三日調書作成時以前に捜査官が現地に臨んでいたことが明らかである。

ところで、右渡辺証人は、昭和三〇年一二月二九日、被告人が木函工場の位置を図示したと証言するが、その図面は現存せず、従つて、被告人が図面を作成したのか否か、作成したとしても、木函工場の位置を何処と図示したのか確認出来ないこと、同証人は昭和三〇年一二月三〇日迄の堀の現地捜査にあたつて、木下警部補から黒い屋根のことをいわれなかつたから、現地でも右小屋は目にとまらなかつたと証言しているが、同人の証言によれば、その頃被告人が供述していた木函工場は森岡正秋の風呂小屋にあたり、そこから二、三間離れたところに同人方の居宅があつたというのであるから、その際、右森岡方居宅の屋根が目に入らなかつた筈はないと考えられること、前記一審証人森岡正秋の証言中に警察官が昭和三〇年一二月末頃と翌三一年一月頃私方へ捜査に来たことがあり、一二月末頃来たとき私方の屋根のこともきかれたと思う旨の証言部分のあることを総合すると、昭和三一年一月二一日被告人を取調べ、寝た場所を図示説明させた時には、警察官が事前に現地に臨んで付近の状況を知悉していたと認めざるをえない。これと被告人の寝た場所に関する供述の変遷経過ことに被告人の初期の供述の基準となつていた木函工場の存在の裏付が得られなくなつた時期と時を同じくして、駅構内の材木置場に供述が変化し、かつ、森岡正秋方に相当すると認められる小屋が表面化して来ていること並びに前記図面および一月二三日付供述調書の内容にかんがみると、被告人のルーフイング葺の小屋に関する供述もまた捜査官の誘導の結果ではないかとの疑を払拭しえない。尤も、捜査日誌(証二七号)の昭和三〇年一二月二五日欄には、堀駅前の木函工場の裏、小さい小屋があるところで青カンをした。その小屋は黒いフアイタール塗りのものであつた旨の記載があるが、同日付で採取された供述録音や同日付の被告人の供述調書には右記載に照応する供述や記載がないことからすると、右日誌の記載の確実性に疑を抱かせるものがあるが、それはとにかく、黒いフアイタール塗りとは如何なるものか、また小屋のどの部分がそうであつたのか必ずしも明かでないばかりでなく、前記渡辺繁延の証言によると、被告人が供述していた小屋の所在位置と前記森岡正秋方居宅とは堀駅を基準にしてその方向、位置を異にしていたことが認められるから、右にいう黒いフアイタール塗りの小屋というのが直ちに森岡方を意味していたとは解し難い。従つて、この点をとらえて、検察官主張のように警察が現地に臨む以前に被告人が真実の体験者でなければ知り得ない事実を先行して供述したものと認める訳にはいかない。

以上の次第で、当審証拠調の結果によつても、未だ最高裁差戻判決の指摘する疑問を解消することを得ない。

(二)  三谷川橋付近のパン屋について

(1)  被告人の捜査官に対する供述

検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書によると、

昭和二九年一〇月二一日堀の町から仁保村に向う途中八坂の散髪屋の前の店で女の人からパン三ケを買つた

司法警察員に対する昭和三一年一月一五日付供述調書によると、

一〇月二一日午前一一時頃、八坂の三谷川の橋を渡つたところの散髪屋の前の店でパンを四ケ買つた旨各供述し

昭和三一年一月一七日には、一〇月二一日にパンを買つたという店の位置を図示している。

(2)  右供述の裏付証拠

(イ)  一審証人山口信の証言(四の一四一四)によると、

昭和三一年一月一七日の取調べの際、被告人が昭和二九年一〇月二一日堀から仁保へ来る途中、腹がすいたので、八坂の橋を渡つたところの散髪屋前の店でパンを買つたと述べたので、そのパン屋の位置などを図面に書かせた。この図面に基づき早速その日、世良刑事と二人で、右図面を持ち、三谷川へ裏付捜査に行つたところ、三谷川橋北詰の散髪屋は河川の復旧工事のため移転して存在しなかつたが、そこから三軒行つたところに食料品や荒物を売つている店があつて、私が行つたとき、パンは売つていなかつたが、本件発生当時はパンを売つていたと店の者からきいた。

(ロ)  一審証人世良信正の証言(四の一四三〇)によると、

山口部長と二人で裏付に行つたときパン屋は散髪屋のあつた三谷川橋のたもとから、二、三軒横にあたる渡辺という店であつた。その日はパンを売つていなかつたが、本件発生の頃はパンを売つていたとの聞込をえた。

(ハ)  当審証人山口信の証言(三三の一三四四〇)によると、

昭和三一年一月一七日、被告人が図面を書いたとき、被告人が三谷川橋を堀の方から渡つて橋の北詰めを右へ曲つた三軒目か四軒目の店でパンを買つたと供述しながら、被告人がこの家がパンを買つた所と説明して図面に書き込み、四番目の四角形を鉛筆で濃く書いた。右図面の橋の北詰から二番目の四角形が濃く書いてあるのは、被告人が橋から二軒目かも知れないといつて鉛筆で濃く書いたのである。また、橋の北詰の左側に書いてある四角形が濃く書いてあるのはここが散髪屋だと説明しながら、鉛筆で濃く書いた場所である。右図面には散髪屋という文字で表示してはないが、三谷川橋北詰の左側角の四角形が散髪屋である。

というのである。

(ニ)  旧二審証人新宮直次(一三の四四六三)、蔵田敏雄(一二の四一〇三)の各証言、新宮直次の住民票謄本(一二の四一二九)によると、

堀方面から三谷川橋を渡つた左側のたもとに、新宮久子経営の散髪屋が昭和二九年一一月中旬まで存在していたことが認められる。

(ホ)  旧二審検証調書(一一の三七七一、一三の四四六九)によると、

被告人がパンを買つたという店は、前記被告人作成図面及び当審証人山口信の証言によつて認められる散髪屋を基準にして、八坂村三谷の三谷川橋北詰から東方四軒目の渡辺美太市方に当ることが認められる。

(ヘ)  当審証人渡辺美太市の証言(三〇の一二二一八)によると、

同人は大正一五年頃から、同所で下駄類の製造、販売を営み、併せて文房具、駄菓子類も店へ出して売つていたが、戦時中は一時休業し、昭和二二、三年頃から商売を再開して、パンや菓子、文房具を販売するようになり、昭和三一年春頃までパンを売つていたというのである。

以上の証拠によつて被告人の自供する場所、時期にパンを販売していた店のあることが一応証明され、被告人の供述には裏付を得たことになる。

(3)  ところが、被告人は一審以来、右(1) の捜査官に対する供述は、被告人が堀警察署に勤務していた当時の昭和一九年一二月末、年末警戒のため三谷川橋際の散髪屋で二時間位張り込んだことがあり、またその付近には学校や旅館もあるし、ここは昔バスの終点になつていた。それで町だからパン屋の一軒位どこかにあると見当をつけていつたもので、要するに過去の知識と体験を基にして、それに想像を交えて述べた旨弁解し、(1) の昭和三一年一月一七日図面作成のとき、昭和一九年頃の自分の記憶では堀方面から三谷川橋を渡ると道路はすぐ左に曲り、しばらく直線で、そして右に曲つていたと思つていたのに、警察官が橋は堀方面から仁保方面に向う道路と直線に接続しているというので、どうもそこの所がはつきりしない部落があつたから正面にパン屋があつた風になつている訳ですと供述し、昭和三二年一〇月二二日被告人作成の上申書添付の図面(四の一四七〇)には、右公判弁解と同じような道と橋の位置を記載している。

そこで、この点を検討するに、

蔵田敏雄、山本義方、新宮直次の司法警察員に対する各供述調書、山口県土木建築部長作成の昭和三八年一〇月九日付回答書、佐波郡徳地町長作成の住民票謄本(以上一四の四一〇三、四一〇七、四一一一、四一一六、四一二九)、旧二審証人新宮直次の証言(一三の四四六三)、旧二審検証調書(一一の三七六七、一三の四四六七)、当審証人蔵田敏雄の証言(三〇の一二二四七)、同新宮久子の証言(二六の一〇八三四)、同渡辺美太市の証言(三〇の一二二一八)、押収にかかる証四四号の一乃至四の写真四枚を総合すると、

(イ)  佐波郡八坂村三谷の三谷川橋は、昭和二五、六、七年頃のキジヤ、ルース台風等の豪雨で流失したため、その後昭和三〇年一月初旬元の橋の位置に新橋が完成するまでは、その上流に架設されていた仮橋が一般の通行の用に供せられていたこと、

(ロ)  旧三谷川橋を堀方面から渡つて橋の左側川下の袂の道路沿いにあつた新宮久子経営の理髪店は、右新橋架設工事の際、橋の高さ、幅員が拡張されたため移転を求められ、昭和二九年一一月一六日頃防府市へ移転したこと、

(ハ)  右架設中の新三谷川橋とその上流にあつた仮橋との距離は約七、八米であつたが、新橋の北詰東端の仮橋の北詰西端との間隔はさらに近接していたのではないかとうかがえること

が認められる。

そして、これを被告人作成の昭和三一年一月一七日付図面および昭和三二年一〇月二二日付図面と各対比してみると、強いていえば、前者の図面は旧三谷川橋および新三谷川橋と道路の接続状況に似ており、後者の図面はむしろ仮橋と道路の接続状況に符合するのであり、このことは一面前者の図面が警察官の誘導によつて作成されたのではないかとの疑を生ぜしめるとともに、他面、被告人が昭和二九年一〇月二一日当時真実仮橋を通つたことがあるのではないかとの疑をも生ぜしめる。けだし、警察官が被告人の供述の裏付捜査のため現地に臨んだ時には仮橋が存在しなかつたことが明かであるから、昭和三一年一月一七日付図面に仮橋の位置の記載がないのは、警察官の当時の認識のままに被告人を誘導し、右図面を作成させたのではないかとの疑いを残すとともに、他面被告人が捜査官に作成提出した右図面の内容を争い、むしろ仮橋当時の状況に近い図面を公判に提出し、且つ、公判廷でこれを主張することは被告人の脳裡に昭和二九年一〇月二一日当時の認識、記憶が潜在していることによるのではないかと思われるからである。

しかしながら、図面はともかく被告人はパンを買つた店として散髪屋の前の店と供述しているのであり、散髪屋の存在については警察官は当時現地に臨んでいても知り得なかつた事情に属するから、右供述自体は誘導に基づくものとは認め難く、またパンを売つていた店をいいあてることは必ずしも偶然といい切れないものがあるが、他方被告人の三谷川橋と道路の接続状況に関する記憶が、事柄の性質上思い違いでないとの保障はなく(前記上申書添付図面における散髪屋の位置も実際と異なる)、また被告人の捜査官に対する供述中に、架設工事中の新橋のことや仮橋のことに関する特徴的な状況に関する叙述の一端が何らあらわれていないことにかんがみると、右上申書添付の図面の記載、被告人の橋と道路の接続状況についての供述主張をもつて、被告人が昭和二九年当時の仮橋を通つたことの証左と断言することもできない。

従つて、以上検討の結果によると、被告人の捜査官に対する供述は、図面を除いては捜査官の誘導によるものとは認められないけれども、さればといつて右供述が被告人の昭和二九年一〇月二一日当時の真実の体験によるのか、昭和一九年当時の経験に想像を交えてのもので、それが偶然客観的事実に符合するに至つたのであるか、いずれとも確定し難く、右供述に真実性を認めることはできない。

(三)  宮野新橋の石川松埜経営の菓子店について。

(1)  被告人の捜査官に対する供述

被告人は司法警察員に対する昭和三〇年一二月一八日付供述調書ならびに検察官に対する同三一年一月一三日付供述調書で、昭和二九年一〇月二四日午後六時頃、山口市宮野新橋の角の店でパンを買つて、仁保へ向つたと供述している。

(2)  その裏付証拠

旧二審証人石川菊尾、同石川松埜の各尋問調書、同検証調書(一一の三八七七、一三の四三七八、四三八五、四四六七)および石川松埜の司法警察員に対する供述調書(一二の四一三〇)を総合すると、山口市宮野上石丸の石川菊尾方では前から煙草、菓子、パン、飲料水等食料品や雑貨類を販売しており、昭和二九年六月頃、本店から三、四〇〇米離れた宮野新橋の袂に、同種の商品を販売する支店を設け、五年間位経営して昭和三三年頃廃止したことが認められ、もし被告人が煙草、マツチ、パン三箇を買つた店が宮野新橋袂の支店の方であるならば、それは恰かも昭和二九年六月以降の体験を供述したものとして重要な意味を有するのであるが、前記石川夫婦の旧二審証言は、昭和四一年四月二二日の供述であり、また石川松埜の司法警察員調書の供述も昭和三八年一〇月四日で、いずれも年月の経過のためその確実性には疑問があり、ことに被告人の自供後間もなく行われた警察の足取捜査の結果を報告した昭和三〇年一二月二四日付捜査報告書の記載によると、右捜査当時には既に宮野新橋の袂には、石川の支店はなかつたと認めえられ、石川夫妻が証言するように、支店を五年間経営してやめたとすると、右支店はすくなくとも昭和二五年頃から存在していたことになり、被告人のこの点に関する供述を本件犯罪発生数日前の体験に基く自供であると限定して解釈することはできない。

第四、前記説示以外の被告人が本件犯行数日前徘徊した経路、飲食した場所、寝た場所、立寄先として供述した内容に体験者でなければ知りえない状況が含まれているか、またその裏付証拠があるか否か

(一)  右徘徊経路に関する捜査段階における被告人の供述

(なお、司法警察員に対する供述調書の大半は右に関するものであつて、逐一その内容を摘記することは困難で煩にすぎるのでその要旨のみを摘記する)

(1)  司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付供述調書では、昭和二九年一〇月二〇日過頃、大阪を出て夜八時頃三田尻に到着し、防府警察署近くの飲食店で焼酎やうどん等を飲食し、夜田圃の中の藁小屋で寝た。

翌朝三田尻駅前通りや天神様通りを徘徊、飲食店で飲食後、バスで大道に行き、同所で秋穂行バスに乗りかえ、潮風呂の旅館の先で下車し、山口刑務所で受刑中知り合つた五〇才位の男の家を訪ね、表で一〇オ位の女の子に父の在否を尋ねたら仕事に行つているというので、後戻りして山根スミ子の叔母方を訪ねるべく傍まで行つたが、気まりが悪いので素通りし、潮風呂の所の酒屋で焼酎にブドウ酒をまぜて三杯位呑み、三田尻に引返し、午後五時半頃、省営バスで上矢田に行き、近くの酒屋で焼酎を四杯位呑み、付近の元藤井製材所に出ていた田中とかいう三七、八才の男を訪ねたが、引越した後で会えず、上矢田に戻り、歩いて三本松、仁保東園を経て、生家の自宅上の小屋に行き、暫く考え、一度は裏の風呂場から家の様子をみたが、子供の声も聞こえないし入る気にならず、そこから仁保市へ行き、仁保酒場、橋本大工、水野方、松田方付近さらに浅地、牧川部落を徘徊し、山根保方の近くへ行つて様子を見、夜明け前むすび山の山頂に上つて寝た。

午後六時ころ下山して付近を徘徊後、山根保方を襲つたと供述し、

(2)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書では、

昭和二九年一〇月二三日朝大阪をたち、夜三田尻についたと大阪出発の日を改め、先の一一月二二日に供述した刑務所で知り合つた男、藤井製材所にいた田中某を訪ねたこと、潮風呂の近くで飲酒したこと、むすび山の山頂で寝たことを取消し、夜明け前仁保駅裏の山に上つて、そこで寝たこと、山根保方を襲う前、八幡神社横の水野方横の小屋に入つて縄を持ち出しこれを腰にくくつて出かけた旨供述した。

(3)  ところが、司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付供述調書以降においては、被告人が大阪駅を出発したのは昭和二九年一〇月二〇日朝で、同夜三田尻に着いたと従前のこの点に関する供述を変更したことと関連して、前記(1) 、(2) で述べた経路、立寄先等が殆んど全面的に取消され、従前の供述とは方向の違う徘徊経路等を供述するに至つた。その供述経過及び内容の概略をみると凡そ次のとおりである。(なお、昭和三一年一月一三日付検察官に対する供述調書の内容は、昭和三〇年一二月一七日、一八日、二五日、昭和三一年一月八日付司法警察員に対する供述調書にあらわれたものとほぼ同旨であるから、右検察官調書で新な事実を供述したものだけを記する。)

(イ)  昭和二九年一〇月二〇日夜の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二〇日夜三田尻について、同所から佐波川沿い(同月二〇日付警察官調書で防石鉄道の線路伝いにと変更した)に歩いて、堀町に出て、堀駅前の木函工場の木の積んであるところで寝た(右寝た場所についても変更があつたことは先に説示したとおりであるから、省略する)と供述し、

同月二五日付警察官調書では、三田尻から堀へ行く途中、夜一一時頃、堀駅一つ手前の部落の線路から左側二軒目の裏に杉垣のある農家の裏の一枚障子の閉めてある所から中に入つて台所の戸棚の中のお櫃の中の飯を皿に盛つて出て長屋の軒先で盗み食いし、皿は裏手の藪に捨てたと供述し、

(ロ)  昭和二九年一〇月二一日の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二一日午前八時頃、堀駅付近で、以前山口刑務所で知り合つた岡田栄と出会い、盗みの相談をして駅前の飲食店で酒を呑み、二人で歩いて八坂に向い、三谷川を通りすぎた街はずれで一緒に一仕事をしようと堀での再会を約して昼頃別れ、八坂の引谷、仁保の松柄を経て、午後四時頃、井開田井久保に出て、岩田の経営する製材所に立寄つて、三好という男と会つた後、高野を経て仁保市に出、仁保酒場で寝たと供述し、

昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では、二一日堀駅前で元大林組で働いていた野村某と出会つた。八坂から井開田へ出て製材所へ立寄る前の午後三時半頃、井開田のお寺の下の山根という店で焼酎をコツプ二杯呑み、パン等を買つたと供述し、

昭和三一年一月一三日付検察官調書では、八坂の三谷川橋を渡つた散髪屋の前の店でパンを買つたと供述し、

同月一五日付警察官調書では、八坂から井開田への途中仁保松柄で甘藷を掘つて食べたり、柿をもいで食べた。仁保高野でも甘藷を掘つて食べたと供述し、

なお、右岡田栄との出会や行動につき、昭和三〇年一二月一八日付警察官調書でも、これを維持したが、同月二〇日付警察官調書では、同人と堀駅前の飲食店に入つたことはなく、同人と歩いて八坂に行き、途中同人が買つた酒を八坂の川土手で呑んだと一部変更し、同月二五日付警察官調書では、同人と堀駅付近の材木の上に腰をかけて話したことはあるが、その余は嘘であると一部取消し、その後それを維持したが、昭和三一年二月一五日付検察官調書では、同人とは会つていないと全面的にこれを取消した。

(ハ)  昭和二九年一〇月二二日の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二二日午前六時頃、仁保酒場を出て、仁保駅、宮野を経て山口に出て、午後五時頃山口市内の石観音の製材所(向山製材所のこと)に立寄り、主人に仕事を頼んだが、一杯じやといわれ、恰度そこにいた小田梅一と話し、午後六時頃、自転車に二人乗りして矢田に出て時間待ちをして午後一〇時頃、黒崎屋から現金や煙草等を盗み、鰐石に出て同人と別れ湯田に出た。それから先のことは後でいうと供述し、

昭和三〇年一二月一八日付警察官調書では、前記小田と会つて、小田と一緒に鰐石まで歩いて出たが、前日盗みをしたといつたのは嘘であると一部取消し(なお、右小田のことについてはその後、同月二〇日付警察官調書では、同人と会つたのは午後三時頃で、製材所で三〇分位話しただけだと変更し、同月二五日付警察官調書では、同人とは全く会つていないと全面的に取消した。)小田と別れてから、湯田の山根スミ子を訪ねたが、返事がなかつたので、山口ヘ出て、九時頃山口駅から行つて裁判所へ行く道の左側の飲食店で焼酎を呑み(右飲食店のことは昭和三一年一月八日付警察官調書で取消した)、その後金古曽を経て宮野へ行き、夜一一時頃、宮野の女専の裏の宿直室に入つて盗人をしようと思つて、のぞいてみたが、こうもり傘しかなかつたので盗らず、その北側裏手の一五〇米位はなれた農家の木小屋兼藁小屋に寝たと供述し、

昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では二二日夜宮野の女専付近の家から飯を盗んで食べたと供述し(右は同月三一日付警察官調書で取消した)、

昭和三一年一月八日付警察官調書では、二二日午前九時頃、宮野石丸の石川という店で煙草やパンを買つて、竜げん門の山に行つて時間をつぶしたと供述し、

同月一三日付検察官調書では、昼頃金古曽に行き、一番上の飲食店で甘柿、餅、パンを買つたと供述し、

同月一五日付警察官調書では、山根スミ子方から宮野へ引返す途中、金古曽郵便局前の酒屋で焼酎二杯を、斜め前の店で買つた竹輪を肴に呑んだ。宮野竜げん門付近でも甘藷を掘つて食べたと供述し、

(ニ)  昭和二九年一〇月二三日の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二三日夜山口から宮野を経て、九時頃、仁保浅地に入り、浅地、牧川を徘徊したと供述し、

同月一八日付警察官調書では、二三日午前五時半頃、女専裏の百姓家を出て、六時頃、宮野駅の角から山口寄り五〇米位の左側の店でパンを買い、練兵場跡、雪舟の寺付近で昼寝をしたり徘徊して時間をつぶし、午後六時頃宮野市営住宅の国道に出て、角の店でパン、菓子を買つて仁保へ向い、午後八時頃から浅地、牧川を徘徊し、浅地の奥から二軒目の家の藁小屋で寝たと供述し、

同月二五日付警察官調書では、二三日夜浅地、牧川を徘徊し、夜一二時頃、山根方納屋の裏まで行つたが、そのとき傍の道を下から人が来たので、壁に体をつけてかくれたと供述し、

(ホ)  昭和二九年一〇月二四日の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二四日朝早く宮野に出て、竜げん門前の山で時間をつぶし、その後仁保に帰り、夜明け近くなるまで仁保市、妙見を徘徊したと供述し、

同月一八日付警察官調書では、二四日朝五時半頃浅地の藁小屋を出て、鉄道線路伝いに宮野に向い、午前一〇時頃、宮野郵便局前の飲食店でうどんを食べ焼酎を一杯呑み、付近の大きな寺の裏山で時間をすごし、午後六時頃宮野新橋に出て、パンを五、六箇買つて、仁保へ向つたと供述し、同月二〇日付警察官調書では、二四日午後七時頃仁保野上の山根散髪店のおばさんに借金を申入れたが、ことわられたと供述し、右は昭和三一年一月一八日付警察官調書で取消した。

(ヘ)  昭和二九年一〇月二五日の経路

昭和三〇年一二月一七日付警察官調書では、二五日夜明けまで仁保市付近を徘徊した後、実家の上の小屋に行つて休み、午後八時頃実家の裏から家に入り、奥の間で寝ていた子供の顔を見、母といろいろ話をしながら、飯を食わして貰い、冷たくいわれて家を出たと対話内容や父親や子供の様子まで詳細に述べた後、その晩山根方を襲つたと供述し、

右供述は、その後同月一八日、二五日、昭和三一年一月八日付各警察官調書、同月一三日、二七日付検察官調書等において、さらに具体的に迫真性のある状況、描写をも付加してそれを維持したが、二月一五日付検察官調書では、二五日午前三時頃、実家の牛小屋の横の藁小屋に入つて寝たが、実家に入つたことはないと従前の供述を取消し、さらに午後八時頃とその後もう一度母屋の裏の杉垣の間から家の中の様子をみ、父母や子供の姿をみたほか藤林の子供が来ているように思つたとこれまた真実らしい状況を具体的に供述し、

昭和三〇年一二月二五日付警察官調書では、二五日夜九時半頃家を出て、八幡神社社務所裏の小屋に入り、縄を腰にまいて牧川へ行き、山根保方に入つたことは同月一日付調書のとおりであると供述した。

(二)  右経路として供述した内容に体験者でなければ知りえない情況が含まれているか、またその裏付証拠があるか否かの点

(1)  昭和二九年一〇月二〇日夜三田尻から防石鉄道の線路伝いに歩き、堀駅より一つ手前の駅のある所の部落外れで線路から左側に二軒目の杉垣が裏にある小さい家で、飯を盗み食いしたとの自供(昭和三〇年一二月二五日付警察官調書)については、旧二審検証調書(一一の三七六七)により、被告人の自供に符合する場所に、自供するとおり裏に杉垣を有し、裏出入口の構造もほぼ符合する三宅亀治方があり、また同人方から一五〇米はなれた場所に昭和三二年頃まで真竹の竹藪があつたことが認められ、被告人の供述と一致しているが、被告人は旧二審公判で、右供述は自分が以前堀警察署に勤務中三宅方付近に捜査に行つたことがあり、その時の知識に基いて供述したにすぎないと弁解しており、この弁解を排斥し去るほどの証拠はない。従つて、捜査官に対する右供述をもつて、昭和二九年一〇月二〇日の体験事実に基く供述だとはいい切れず、前記証拠以外に住居侵入や飯の盗み食いの事実を裏付ける証拠もない。

(2)  昭和二九年一〇月二一日、八坂を経て仁保へ向う途中、松柄峠で甘藷を掘つて食べたという自供(昭和三一年一月一五日付警察官調書、同月二一日被告人作成の図面)については、一審証人山口信、世良信正の各証言(四の一四一八、一四三二)があり、それによると、被告人作成の図面に示された甘藷を掘つた場所というのは、瑞穂糧穀株式会社が村田輝雄管理のもとに耕作していた佐波郡八坂村大字引谷字瀬戸原所在の甘藷畑に相当すると認められ、昭和三〇年秋には甘藷を栽培していなかつたが、昭和二九年秋には栽培していたというのである。

ところで、被告人は右の点につき一審以来、八坂から松柄峠までの道は歩いて通つたことはなく、車で通つたこともないが、昭和二三年頃、仁保村松柄峠寄りの一番上の部落の甘藷畑を借りて整地して製材機を据付けて父と製材仕事をしたことがあるので、そのときの体験をもとにしていつたのであると供述しているのであるが、右供述は旧二審証人松田幸太郎、溝部本一の各証言(一三の四四二二、四四二九)に照らし、たやすく措信し難い。

しかしながら、農村地帯において畑地が各地に散在し、また畑作として甘藷栽培が広く行なわれていることは、農村生活経験者にとつては、むしろ常識となつており、被告人作成の図面と前記山口証言等に現われている畑がたまたま一致したとしても、被告人のこの点の供述を余り重視するわけにはいかない。

(3)  昭和二九年一〇月二二日深夜、山口女専北側の裏手一五〇米はなれた農家の木小屋兼藁小屋で寝たという自供(昭和三〇年一二月一八日付警察官調書、なお、同月二五日付警察官調書では農家の納屋で寝たとある)については、昭和三一年三月二二日検察官録音第一巻中に、女専の上側の道のへりにある、左側に木小屋と納屋のある向うが母屋になつている百姓家の納屋の中に寝た。その納屋の入口には組立てた鉄車の荷車があり、これにはござのようなもので覆いがしてあつた。かじ棒は入口の方へのぞいていた。中には薪や藁が相当入れてあつたという被告人の供述があり、他方旧二審検証調書(一一の三八七七、一三の四四六七)および当審証人大枝左七の証言(二九の一二〇五五)によると、被告人がいう木小屋兼藁小屋というのは山口女専(後に山口女子短大と改称)の敷地に隣接し、同校の校舎の東北方約一〇〇米にある大枝権蔵方木小屋に当ると考えられ、同人方は南向きで、女専の方から近道を行けば木小屋、母屋、納屋の順に並んでいること、そして、木小屋は昭和二四年改築するまでは間口一間、奥行二間で、草葺の粗末な掘立小屋で、その西側にさしかけもあつたが、小さく天井が低いため大八車を入れることはできず、それまでは母屋東側の納屋においていた。昭和二四年右小屋を改築し、さしかけも大きくしたので、それ以来大八車をさしかけに入れるようにしていた。木小屋には薪や藁を入れていたというのであり、被告人の前記供述には右限度において一応裏付があるといえないこともない。

しかしながら、被告人の前記供述ことに荷車の状況に関する供述自体、昭和二九年一〇月二二日一夜の経験としては余りにも詳細で微にわたる認識、記憶に属し、真実の記憶どおり供述したものか疑問なきをえず(従つて、被告人が公判段階において弁解するよう昭和一九年頃の経験に基づく供述であるものとは到底認められない)、右大枝方の家屋の配置や荷車の所有、置場所、木小屋の収納物などが、農家では比較的共通して見受けられることであることにかんがみると、前記被告人の供述をもつて直ちに昭和二九年一〇月二二日夜の体験による事実の供述とみるわけにいかない。そして、他に被告人が当時同所に寝たことを目撃した者はなく、またその形跡も立証されていない。

(4)  昭和二九年一〇月二三日夜一二時頃、山根保方の納屋の裏に至り、様子を窺つていたとき傍の道を下から上つて来る人があつたため壁に身を寄せて隠れたという供述(昭和三〇年一二月二五日付警察官調書、昭和三一年一月一三日付検察官調書、昭和三〇年一二月二四日付被告人作成の図面)については、一審証人藤井勇の証言、同人の検察官に対する供述調書(一の三三一、三の一〇九五)があり、それによると、被告人が右供述をした以前、既に警察で藤井勇から右事実について聞込みをえていたのであり、被告人の右供述があつて、藤井勇にその事実を確めたということではない。また、前記証拠によると、同人は昭和二九年一〇月二三日夜一二時頃、仁保小学校での映画を見ての帰り、山根保方裏道にさしかかつた際、同人方納屋裏に人影を認め、薄明かりにすかしてみたところ、頭に帽子か何かを冠り、黒つぽい服装をした背丈け五尺五、六寸で横巾もある体格のよい三六、七歳の男が便所横の納屋の壁にくつつくようにして立つていた。それは元木出人夫をしていた西村という男に似ていたように思う。このことは本件犯罪発生後一週間位して警察に届出たというのであるが、右証言によつても、何者かの人影をみたという程度にとどまり、藤井辰美の証言に照らしその確実性にも若干の疑があつて、これを直ちに被告人に結び付け被告人の供述を裏付ける証拠とはなし難い。

(5)  昭和二九年一〇月二五日夜生家に立寄つたことに関する被告人の供述は特に詳細で真偽を判別し難いような供述の変遷があるので、念のため掲げると次のとおりである。

(イ)  昭和三〇年一一月二二日付警察官調書では、生家の上の小屋に入り暫く考え、一度は裏の風呂場から家の様子をみたが、子供の声も聞こえないし、入る気にならず、そこから立ち去つたと供述し、

(ロ)  同年一二月一七日付警察官調書では、二五日夜八時半か九時頃、裏から声をかけて家に入つた。台所付近にいた母に大阪の天王寺付近で日雇稼をしていること、子供が見たくて帰つて来たが、何も土産物をもつて帰らなかつたと詫言をいい、人目にたたないうちに大阪に帰つて一生懸命働いて来るなどと話しながら、食事をさせて貰い、母から家の財産はすべて通保のものにしてあるから心配しなくてもよい。今晩一晩泊つて明日人目につかないうちに早く出てくれといわれ、食事を終つて、午後一〇時頃家を出たと供述し、

(ハ)  昭和三一年一月一三日付検察官調書では、二五日夜明け前の午前三時頃、生家牛小屋の横にある藁小屋に入つて、その日の夕方まで隠れていた。その間、二、三回母屋に入りかけたが、父がいて敷居が高くて中へ入れなかつた。夜八時頃、ご免下さいと声をかけて、中に入ると、水屋の抽斗を開けたりしていた母は私を見ておどろいていた。私は父に聞えては悪いと思い、手真似で母が声を出すのを押えるようにして台所へ腰をかけ、母に小さい声で大阪で失敗して土産も買わずに帰つて来たなどと話した。そして飯を食べさせて貰つた。その後母のぐちをきいたりしていたが、その言葉の中の人目につかないように帰れというのが胸に来て、どうせ前科者だから邪魔だろう、明日帰れといわんでも今晩帰つてやるわい。俺が戻つたということをもしも人に話したら今度お前らが叩き殺されるぞと凄文句を並べて家を飛び出した。その間父は台所の上の間にいて時々煙管を叩く音がしていたと供述し、

(ニ)  昭和三一年二月一五日付検察官調書では、先に母屋へ入つたといつていたのは嘘であると取消し、

二五日午後八時頃、牛小屋から出て母屋裏の杉垣の間から家の中の様子をのぞいたところ、いろりのそばに父がおり、母がかまどの前にいた。いつたん立ち去つた後、しばらくして再び戻つて杉垣の間から硝子障子越しに屋内をのぞくと父がもとの位置におるのが見え、通保が上の間の方から「じいちやん、なにやらしよる」と父のそばへ寄つて来て何か話している姿を見た。通保がたけつたのは、近所の藤林の子供が来てなにかいたずらをするため、通保が父につげに来たように思つた。その時は母の姿は見えなかつたと供述し、

(ホ)  昭和三一年三月二二日の検察官録音によると、裏の杉垣の所から台所の硝子越しにのぞいていたら、通保が「じいちやん、じいちやん」といつてたけるようなから、のぞいてみていると、やつぱり誰かほかにも上の間におつたように思うんです。そのほかの者というのは、子供みたいだつたから藤林の子供でも来ておるのか、まだ帰らないでわるさでもしよるのかと思うた。或いは、誰か自分の姉が子供を連れて来ておるのかと思うたと供述している。

右のように、何れが真実か判別し難い供述内容の変更があるが、被告人が生家に入つて母と会い、食事をしたことについては、岡部繁一、アサ両名共に検察官に対し(一四の五一二九、五一三九)、また一審証言(四の一五一四、二六六四)で強く否定するところで、他にこれを裏付ける証拠はない。

前記(ニ)、(ホ)の供述中の通保のほかに近所の藤林の子供か姉が連れて来た子供がいるのかと思つた旨の供述は、その前頃から岡部方四女の江本ミキノが三才位の子供を連れて生家に農業の手伝いに来ていたことと微妙に符合することが認められる(前記岡部繁一、アサの各検察官調書)。しかしながら、右情景の供述もいずれも、被告人が出奔前、生家で経験した同種の出来事を基にして述べうるものであつて、右供述に犯行前夜の一〇月二五日夜の体験でなければ知りえない情況が含まれているとはいい難く、他に被告人の供述を裏付けるに足りる証拠はなく、さらに供述の変遷推移からみても被告人の供述が真実であるとはたやすく断定し難い。

(6)  その他被告人の徘徊中における寝食等の自供の裏付証拠をみるに、

(イ)  被告人が立寄つて飲食したという店は、仁保村井開田の山根三代人商店(昭和二九年一〇月二一日午後三時半頃、以下日時のみを記する)、山口市上石丸の石川菊尾商店(二二日午前九時頃)、同市宮野上折本の枇杷田キヌ子商店(二二日昼頃)、同市宮野下二三九五の波多野寅一商店(二三日午前六時頃)、同市桜畠東住宅付近の江口ミツル商店(二三日午後六時頃)、同市宮野住吉の岡本利雄商店(二四日午前一〇時頃)に該当することおよび右各店は以前から、被告人が買つたという品物と同種の物品を販売していたことが認められ、

(ロ)  被告人が泊つたという仁保酒場(二一日夜)は、仁保村中郷仁保市にある仁保敏衛らが昭和二四年頃、酒蔵を改造してはじめた製材所であり、仁保村浅地の奥から二、三軒目の藁小屋(二三日夜)というのは、浅地にある興国益保方か佐々木博正方のいずれかであると思われるが、被告人の自供と旧二審検証結果を総合すると、興国方にあたる可能性が強く、そうだとすれば、当時同人方には飼犬がいて、深夜他人がその屋敷内で野宿することは困難な状況であつたことが認められ、

(ハ)  また被告人が盗みに入ろうとしたという宮野の女専(二二日夜)は、山口市宮野の山口女子専門学校であり、立ち寄つて縄をとり腰に巻いたという仁保八幡神社横の農小屋(二五日夜一〇時頃)は、同所にある藤村幾久所有の農小屋であることが明かである。

このように被告人が供述する飲食店、寝た場所、入つた学校、農小屋はいずれもその供述するところに存在していたことは認められるが、被告人が仁保村で生まれて成長し、その後家業の移動製材に従事して諸所を廻り、山口市内の商店に勤めたり、製材工として働いたことがある経歴、職歴等に照らすと、右の諸点はその頃にえた知識と体験をもつてしても供述しうる事柄の範囲内に止まり、他に当時被告人に酒食等を売つたと証言する者はなく、また被告人が野宿し、或いは侵入したのを目撃した者もその形跡を確認している者もない。

以上検討したとおり、被告人が徘徊経路として供述した内容には、昭和二九年一〇月二〇日頃から数日間において、現に体験した者でなければ知りえない情況が含まれているとは認められず、またその供述を裏付けるに足りる証拠も十分ではない。

第五、山根保方の被害金品と被告人がそれを所持していた事実の有無

一家全員が殺害され生存被害者のいない本件で、被害金品の種類数量を精確に知ることは困難である。ことに金銭については、木村完左の証言等により、山根保方が、仁保村においてほぼ中流の生活を営み、農業の外桐材や竹の仲買をしていた関係で、比較的金銭の出入りが多く、仲買資金として、時には一〇万円前後の現金を所持していたこともあるという程度のことしかわからず、本件被害当時、山根方にはたして総額幾何の金があつたのか、そして幾何の金を強奪されたのかは、被告人の自白を除いては明らかではない。そこで以下主として最高裁差戻判決の指摘する国防色上衣について、本件により、はたして山根方に国防色上衣の被害があつたのかどうか、また被告人が右被害品と認められる国防色上衣を所持していた事実があるかどうかの点を検討する。

(一)  被告人の自白の経過と内容、

(1)  被告人の司法警察員に対する昭和三〇年一一月二二日付調書(三の一一七八)によると、

山根保方で盗つたものは、現金七、八千円とカーキ色折襟上衣一着である。

(2)  同年一二月一日付調書(四の一二〇一)によると、

盗つたカーキ色の服は、将校の着るような襟の折れた軍服であつた。

(3)  同月四日付の調書(四の一二二四)によると、

山根方で盗つて出た服は、軍服と言つていたがあれは軍服ではなく、将校の着るような木綿よりは良い国防色の折襟服で、襟が普通の背広服とは狭く折るようになつたものであつた。生地は薄く夏物か合物と思われる触りの柔い感じのものであつた。

(4)  昭和三一年一月二〇日付調書(四の一三〇九)によると、

山根方で盗つた上衣は、国防色の少し濃いような色で、割に薄い軽い生地で襟は折れているが、普通の背広のように大きく開いていない一寸国民服に似ており、バンドは付いておらず、ポケツトは、胸と両脇に蓋の付いたポケツトがあり、その生地や色は証六四号(原審の証一号)のズボンと同じような上服であつた。

(5)  検察官に対する昭和三一年一月一四日付調書(四の一三四六)によると、

盗んだ服は濃いカーキ色で折襟であつたが、その襟は普通の服のように大きなものではなく細いものであつた。裏はなく夏服のような生地で、余り良いものには見えなかつた。両脇のポケツトには覆があつたが、胸ポケツトは覆がなく左側についていた。

というのであつて、折襟といい軍服といい一寸国民服に似ていたといい、国防色あるいは濃いカーキ色といい、表現は区々であるが結局は証一号ズボンと同じような生地と色合の襟元の開いた上衣というに帰するようである。

(二)  被告人の自供にかかる国民服類似の上衣が、本件犯罪発生まで山根方に存在し、それが本件後なくなつているか否か、

(1)  司法警察員作成の検証調書(二の四九六、五九三)によると、

本件発生直後被害者山根方に残つていた衣類の中に、軍服上衣一点、国防色上衣一点、軍服上下一着、ズボン四点が箪笥の中あるいは部屋の鴨居に、納めてあつたり吊されていたこと。

(2)  司法警察員作成の昭和三一年一月一〇日付捜査報告書(六の二二四五)、同月七日付領置調書(六の二二五二)によると、

前記軍服類や国防色の上衣やズボン三点は、他の衣類とともに形見分として近親者に分配され(ズボン一点は焼却処分)、右軍服上衣一点、国防色上衣一点は田村峯若に、軍服上下一着のうちズボンは山下重太に、その他の軍服上衣一点とズボン三点は木村完左に各分配され、右ズボン三点のうち一点は国民服用のズボンで、本件の証拠として木村完左より任意提出され、証六五号(原審における証一号)として領置されていること、

が認められるが、叙上証拠によつては田村峯若が分配を受けたという軍服上衣一点及び国防色上衣一点と、木村完左の分配を受けた証一号を含むズボン三点の組合せ上下関係は、必らずしも明らかではない。

(3)  証人木村完左の一審証言(一の一四八)によると、

兄保は背広を四着と国民服と軍服を合せて四、五着持つていた。国民服というのは、色は国防色で甲号という立襟の襟が折れているものであつた。自分が同居していた頃はまだ余り古くなつていなかつた。事件直前頃は見たことはない。

(4)  同証人の旧二審証言(一一の三九一三)によると、

私が終戦で昭和二一年帰つた頃、兄保が国民服を着ているのを見たことはない。帰つてから三月ばかり一緒にいたがその当時は軍服みたいな国民服であつた。貰つた分は襟のあいた分である。自分は国民服を貰つた。

(5)  同証人の当審証言(二八の一一三二六)によると、

自分は昭和二一年六月復員して六ケ月位実家にいた。兄の家には証一号のズボンと対になつた上衣があつたように思う。その上衣というのは襟は開襟で、現在国鉄の職員が着ているような型であつたと記憶している。ポケツトは胸と両脇に四つあつたと思う。事件より一年前の秋一〇月頃、実家に行つたとき、その服を母から出して貰つて松茸狩に着て行つた記憶がある。それまでその服を見た記憶がなかつたが、いろいろ考えているうちに右のような記憶が浮んだのである。形見分のとき自分は、証一号のズボンを貰つたが、上衣のことには気が付かなかつた。警察の方から国民服の上衣とズボンがあれば出して呉れといわれたとき、上衣はなかつたのでズボンだけ出した。自分が形見分で貰つた上衣は、折返しのある立襟の分であつた。

というのであり、

(6)  一審証人須藤玉枝の証言(一の一二二)及び前記捜査報告(六の二二四五)によると、

山根保は、昭和二四年頃まで、会合その他の場所で国防色の国民服を着用していた。その国民服というのは、襟の折れた立襟の国防色の服で、色合は証一号のズボンのような色であつた。

というのである。

右(1) ないし(6) の証拠のように、山根保方にあつたという国民服に関する木村完左の旧二審までの証言は、あいまいで、それを見たという時期も不明確であるうえに、その国民服は折返しのある立襟であつた。貰つた分(形見分として貰つた分と解せられる。)は襟の開いた分であると証言しながら、当審においては、山根方には自分が貰つた証一号ズボンと対になつた開き襟の国民服の上衣があつたが、形見分のときには無かつたとかなり明確かつ具体的に証言し、さらに自分の貰つた上衣は、折返しのある立襟の上衣であると旧二審までの証言とは異なる証言をするのであるが、従前の証言の内容、当審証言までの変遷推移からみて、同証人の当審証言を採つて、直ちに、山根保方に本件犯罪発生時まで、被告人の自白に符合する国民服の上衣が存在し、それが本件犯罪後なくなつていたとまで認定することは困難であり、須藤玉枝の証言等前記(6) の証拠もまた、右の点に関する証拠としては不十分である。

(三)  被告人が本件犯罪後、自白にかかる国民服類似の上衣を所持していたか否か

(1)  一審証人福井シゲノの尋問調書(二の四〇七)によると、

私は昭和三〇年四月頃から被告人と知合になつたが、当時被告人は、国防色の四ツボタン付の海軍の将校の着るような立襟で胸と両脇にポケツトがあり、縫付のバンドのある服を持つていた。その服は証一号のズボンより一寸生地が良くて厚く、色も一寸濃い色だつた。裏は背抜の合服で、右測の横ポケツトのところに血のシミを洗つたような跡があつた。

(2)  同山本高十郎の尋問調書(二の三九六)によると、

被告人は昭和三〇年三、四月頃、カーキ色の青年団服のような上衣を着ているのを見たことがある。

それは証一号のズボンのような色で、腰を上から締めるようになつていた。

(3)  同中田いとの証言(二の六九九)によると、

被告人が所持していた衣類については良く記憶していない。国防色の上衣は兄ちやんから借りていた。被告人が数日小屋を留守にして帰つて来た時の服装は、小屋から出て行つた時の服装と同じであつた。

というのであつて、本件犯罪発生当時被告人と同棲していた中田いとからは、国民服について明確な証言は得られず、福井、山本両証人の証言も、それは被告人が茶臼山に移居した後の昭和三〇年三、四月頃見知つた事実で、はたして被告人が何時からそのような上衣を所有所持していたのかは不明であり、ことにその上衣が腰バンド付であつたという点は看過し得ないところである。

(四)  以上を要するに、被告人が捜査官に自白しているような国民服の上衣が、本件犯罪発生時まで、被害者山根保方に存在していたか否かに関する一審竝びに旧二審までの証拠は、その上衣の襟元が、折返し襟付の立襟であつたという点で、開襟であつたようにいう被告人の自白と相違するばかりでなく、その上衣が山根方にあつたという時期が不明確であり、当審木村証言は、国民服の襟元の状況、存在の時期について、従来の証言の矛盾や不備をほぼ修正し補足する内容のものではあるが、これに全幅の信頼を措き難いことは既に説示したとおりである。そして、被告人が本件犯罪発生後、それまで所持所有していなかつた国民服の上衣を、所持所有するに至つたこと、しかもそれが、被告人の自白するような生地、色合、型の国民服であつたという裏付証拠は、ついに発見し得ないのであつて、最高裁差戻判決の指摘する疑問は、当審の証拠調をもつてしても解消し難いのである。

第六、本件犯行現場に遺留されていた藁繩(証四号以下現場遺留縄と略す)は藤村幾久方農小屋から持ち出されたものであるか否か

(一)  一審証人木下京一(三の八六二)、山口信(五の一八八二)、友安敏良(六の二三二二)の各証言、原田次正作成の鑑定書(二の六一七)、渡辺繁延ら作成の捜査報告書一五通(三の一一〇一以下一一三七)、旧二審証人渡辺繁延の証言(一四の四六八五)によれば、

現場遺留縄は、山根保方居宅西側納戸の老母山根トミの死体の頭付近の畳の上に落ちていたものであり、警察当局は、右縄の落ちていた場所、状況から犯人が持ち込み遺留したものと考え、この繩こそ犯人検挙の鍵を握るものとして直ちに鑑定を行つた結果、右縄は農林一〇号の稲藁を材料にして栗原式製縄機で製縄されたよりの多い三分の縄であることが判明したので、これに基づいて多数の捜査員を動員して、昭和二九年一一月初めから同年一二月下旬にかけて、仁保村は勿論近隣数ケ町村に亘つて、農林一〇号の稲を栽培している農家および栗原式製縄機を所有する者を調べるなどして右縄の出所を捜査した。しかし、昭和二八年頃農林一〇号の稲は山口県下の山間、山麓地帯に適した品種として奨励されていたので、仁保村やその近辺の町村でも多数の農家で作付されており、また栗原式製縄機を所有している農家も多数に及び、若干の類似品を発見したが、照合の結果現場遺留縄と合致するまでに至らず、現場遺留縄の出所は不明であつた。

(二)  現場遺留縄の特徴

原田次正(二の六一七)、橋本照応(二の六一八)、高山匡(二の六一九)作成の各鑑定書、一審証人原田次正(二の六五九、五の一九七四)、福永卓治(六の二〇四五)の各証言、渡辺繁延ら作成の捜査報告書(三の一一〇一以下一一三七)、旧二審証人原田次正の証言(一四の四六八四)および証四号藁縄によれば、

(1)  右縄は昭和二八年産の農林一〇号の稲藁を材料にして、栗原式製縄機で製縄されたよりの多い全長一八五糎、直径九耗ないし一二耗の縄である。

(2)  右縄にはO型の血液および若干の長石、石英(土砂の成分)ならびに木炭粉末が付着していたこと、右縄には一〇ケ所の屈曲部があり、その屈曲は両端の部分の角度が深いものであつたこと、屈曲部位、その間隔等は前記高山作成の鑑定書記載のとおりである。但し、鑑定によつてもその用途は不明であつた。

(三)  現場遺留縄に関する被告人の自供

(1)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月一日付供述調書によると、

被告人は、昭和二九年一〇月二五日午後九時か一〇時頃、船山八幡宮境内の水野松次方裏にある小屋に入り、三、四〇分腰を下ろして休んだ。この時、米か酒を盗もうと考え、これらを盗んだ場合にその荷造に必要なものはないかと思つて手探りで捜したところ、小屋の奥にある鋤にかけてあつたと思いますが、縄が手に触れたので、これを一回腰にまいて、両端を体の両横にはせて出かけた。これは一尋半位の藁縄であつた旨供述している。

司法警察員に対する昭和三〇年一二月二五日、同三一年一月八日、一月一五日付各供述調書、検察官に対する同年一月一三日、二月七日付各供述調書、同年三月二二日検事録音も右とほぼ同旨で、この点に関する被告人の供述には変更は認められない。

(2)  なお、司法警察員に対する昭和三〇年一二月三一日付供述調書九項によると、

捜査官から、被告人が八幡さんの社務所裏の小屋から出して待つて行つた繩はこれかと現場遺留繩を示されたのに対し、被告人は右繩を腰に巻いて結ぶ真似をし、更に繩の質をよく見てこれです。このような機械繩でしたと供述した旨記載されている。

(四)  右自供に対する裏付証拠

(1)  被告人が供述する小屋の存在、その所有者、右小屋の戸締状況ならびに内部の収納物の状況

(イ)  一審証人藤村幾久の証言(二の四六五、六の二四〇八)によると、

被告人が供述する船山八幡宮の水野松次方裏の小屋とは、同神社西側の畠に建てられている一戸建の農小屋であり、この小屋は同所から約一五〇米はなれたところに住んで農業兼新聞販売業を営む藤村幾久の所有であつて、昭和二九年一〇月頃、右農小屋には藁や新聞梱包繩、その他農機具を入れていたが、戸締りがなく開け放しで、誰でも自由に出入することができたこと、

(ロ)  昭和三一年一月二〇日伊藤始作成の実況見分調書(六の二二二七)によると、右農小屋は南北三間、東西二間の瓦葺平家建の西面した独立家屋で、東、南、北の三面は壁で西方が開放されていて自由に出入することができ、見分時には内部には唐箕、莚、平鍬、ふご、叺、藁、稲ハデの支柱などが収納されていたこと、

(ハ)  検察官の昭和三一年三月二二日付検証調書(三の七八六)によると、農小屋の位置、戸締り状況は前同様であり、その内部に唐箕、足踏脱穀機、小車、鋤、熊手等の農機具が雑然とおかれ、藁束が雑然と堆積されていたこと、

が認められるが、右各調書には、何故か右農小屋内に藁繩があつたか否かについて触れるところが全くなく、従つて、当時、農小屋の内部には繩が存在していたか否か明かではなく、むしろ存在していなかつたのではないかと思われる。

(2)  現場遺留繩と藤村幾久方に送られて来た新聞梱包繩との類似性について、

(イ)  前記藤村幾久の証言によると、

昭和二九年九月、一〇月頃、藤村方で取扱つていた新聞は朝日、毎日、防長の各新聞であり、これらの各新聞は包紙と藁繩で梱包されて、国鉄仁保駅まで送付されて来るが、防長新聞は一二〇部の場合には六〇部宛重ねて二つ折りにし、その折目を外側にして二個をかみ合わせ、これをハトロン紙で包んだうえ、一本の藁繩で表も裏も一重まわしで十文字型にかけ、朝日(約三四〇部)、毎日(約二六〇部)は、部数が多いため、長短二本の藁繩で表も裏も「キ」型に二重に繩がけしてあり、これらの縄は短い方でも防長新聞を梱包した縄より約三〇糎以上長く、一見して分ること、同人は右新聞梱包繩を荷解きし(もつとも、当審における証言では、防長新聞の場合は一重であるため結び目を解かないではずしていたともいう)、その都度出た藁繩を薪取りや農作業に使用するため一旦自宅横の木小屋に納め、一、二ケ月に一回位まとめて、前記の農小屋へ運んでおいて、農作業等に使用していたが、右繩以外の繩を他から購入したことはなかつた。示された現場遺留繩は繩の先端の曲り具合が新聞梱包を解いた繩と似ているので、新聞梱包の繩だと思う。

(ロ)  一審証人早野秀夫の証言(二の四七二、当時防長新聞社発送課長)によると、

防長新聞社は本件発生当時新聞梱包用として太さ三分の繩を長豊物産から購入していた。私方で使用している繩は現場遺留繩ほどよりがかかつていなかつたと思う。新聞を梱包した場合、その繩に縛つた形が残ることはないと思う。

(ハ)  一審証人杉岡美喜男の証言(二の四七七、当時長豊物産専務取締役)によると、

昭和二六年頃から、防長新聞社へ新聞梱包用の繩を納入していた。繩の太さは二分五厘と三分で、三分の方が多かつた。昭和二九年頃は佐賀市の平辰一商店と山口県豊北町の矢野製繩工場から仕入れていたが、平辰一からの仕入れの方が多かつた。現場遺留繩はよりが多い点で矢野製繩工場の製品と似ている。平商店の製繩機は古賀式と思う。

(ニ)  一審証人矢野正生の証言(二の六五四、矢野製繩の経営者)によると、

昭和二八、九年頃使用していた製繩機は栗原式で、稲藁は近郊の滝部、特牛、粟重、田耕の農家から買付けた。稲藁の材質は旭と農林系で、旭の方が多かつたように思う。現場遺留繩のようによりの多いのを出していたと思うが、私方の繩より少し太いようだ。もつとも太いのも製造していた。

というのである。

(ホ)  一審五八回公判期日における検証の結果によると、

右公判期日に、検察官が未使用の藁繩を用い、これに現場遺留繩に存する屈曲部一〇ケ所と同じ間隔、位置に印をつけて、証五号(防長新聞社発送係が同新聞一二〇部を梱包したもの)の防長新聞一二〇部の梱包方法(六〇部宛二つ折にし、かみ合わせ、ハトロン紙で包んである上を藁繩を一重にまわし、表も裏も十文字にかけて角結びに梱包する)と同じ方法で新なハトロン紙包みの防長新聞一二〇部を縛つたうえ、右実験の結果繩に出来た屈曲ケ所を点検したところ、屈曲部はB、C、D、E点において一糎乃至二、五糎の相違があつたが、その他のA、F、G、H、I、Jの各点は各間隔が一致したことが認められ、

(ヘ)  旧二審証人渡辺繁延の証言(一四の四六八五)によると、

被告人が藤村幾久所有の農小屋から繩を持ち出したと供述したので、右農小屋へ捜査に行つたところ、そのなかに現場遺留繩と同種類の繩があつたので、捜査本部に持ち帰つた。そして現場留遺繩の折損ケ所と対比し鑑定の必要があるというので鑑定してもらつたと思う。その結果は現場遺留繩と相違ないということであつたと思う。

(ト)  当審証人横山哲也の証言(二五の一〇三二〇)によると、

昭和三〇年一二月初め頃、木下警部補から農小屋の存否、所有者、繩の存否、繩の入手、搬入の経路、使用目的等を調査せよと命ぜられ、当時仁保下郷駐在所の巡査吉田丈夫と一緒に藤村幾久方に赴き、同人の妻に色々と事情をきき、同女の立会で右農小屋を調べたところ、中に太さ、長さ、屈曲部などからみて現場遺留繩と類似した繩が乱雑におかれているのを見たが、そのとき右類似の繩は持ち帰らなかつた。その後二、三日して吉田巡査が、丸めれば直径約二〇糎になる分量の繩を山口署の捜査本部に持つて来たのをみたことがある。またその後、篠原正が沢山の繩をもつて来たのを見たことがある。吉田と篠原がもつて来た繩は、当時被告人の取調室にあてていた山口署二階幹部宿直室の押入れに区別して収納されていたが、その後検察庁へ送るとき命により点検をした際前記の繩は一緒になつたと思う。一審で藤村方から沢山繩を借りて帰つたように供述しているのは、表現が不十分で篠原がもつて来たことをいつたものである。

(チ)  当審証人篠原正の証言(二五の一〇五〇〇)によると、

昭和三〇年一二月二二日頃、友安警部から藤村方居宅横の木小屋に行き、繩があれば領置せよとの命を受け、吉田丈夫、渡辺繁延の三人で藤村方に赴き、木小屋内にあつた藁繩約二貫目の任意提出を受け、後日、吉田丈夫が炭俵二俵にいれて山口署の捜査本部にもつて来た。そして、これを当時被告人の取調室にあてていた山口署二階幹部宿直室の押入れに収納して保管していた。その押入れには私が領置した繩以外にも繩が相当数あつた。

(リ)  当審証人友安敏良の証言(二八の一一四五一)によると、

昭和三〇年一二月一日頃、被告人の供述があつてから一両日して部下の吉田丈夫、渡辺繁延らに被告人がいう農小屋の存否、その内部に繩があるか否か、あれば預つて帰るように命じたところ、吉田らが農小屋にあつた繩一〇数本を無雑作に山口署にもつて来た。取調室で右繩を点検したところ、現場遺留繩と類似したのもあつた。それを取調室の押入れに収納させた。そして、その際の吉田らの報告によると、右農小屋は藤村幾久のものであり、同人は毎日来る新聞の梱包繩を荷解きしてこれを自宅横の木小屋にいれ、一定量たまると、それを農小屋へ運んでいるということであつたし、二〇日後位に私自身他の捜査の序に藤村方横の木小屋に立寄つて内部を見たら沢山の繩が無雑作においてあるのを現認したので、篠原に木小屋内の繩を領置するように命じたところ、炭俵二俵に入れてもつて来たので、これも取調室の押入れに収めさせた。

昭和三一年一月終り頃、事件を検察庁に送致したのであるが、その際右各繩は区分して送致すべきところ、一括してしまつたかも知れない。そして事件発生直後頃、近隣の農家等から、捜査員が現場遺留繩と類似しているとして参考のため蒐集して来た繩は、その頃仁保下郷巡査派出所に設置されていた捜査本部に持込まれていたが、昭和三〇年一月下旬同所の捜査本部が解散となり、山口署に引揚げるとき処分した。捜査本部を山口署に移してからは繩の出所の捜査をしていなかつた。

というのである。

(ヌ)  繩約二貫目(証五二の一乃至一〇一)の証拠調の結果

右繩の中に は、当審証人友安の証言に反し、本件発生直後頃、現場遺留繩の出所捜査の際、捜査員が藤村幾久方木小屋および農小屋以外の一般農家等から、参考資料として蒐集したと思われる藁繩(大内村長野江藤清一と書かれた紙札が付いている。)が混入していて、右繩二貫目はその立証趣旨に照らし証拠としての適格性に疑があるばかりでなく、右繩の前記保管状況に照らし、現在その屈曲の有無や屈曲部、形状、間隔等を現場遺留繩のそれと対比検討することは無意味であり、さらに右繩を当裁判所において検討してみても、その材質、太さ、よりの具合、変色の程度等からして現場遺留繩と近似しているものはなく、むしろ、現場遺留繩と材質、太さ、よりの具合の似ていると思われるのは、前記二貫目の繩の中に混入している初期の捜査の際蒐集した他所の繩であることが認められる。

(3)  以上の事実によると、本件犯罪後藤村幾久方から蒐集された繩には鑑定を俟つまでもなく、現場遺留繩に類似したものがなく、むしろ、材質、製造上の特徴に類似したものが藤村方以外の他所にもあつたことが認められ、旧二審証人渡辺繁延および当審証人横山哲也の藤村方農小屋内に現場遺留繩と類似した繩が存在していた旨の証言部分は、その当時、その類似性について何等鑑定等の措置もなされていない捜査経過にかんがみ措信し難いし、一審証人早野、矢野各証言は必ずしも類似性を肯定したものではない。成る程、一審検証の結果によれば、防長新聞一二〇部を梱包した場合の屈曲部と現場遺留繩の屈曲部の大半に類似性が認められるが、なお一部の相違があり、しかも屈曲部の類似性自体同寸法のものを同一方式の結び方をすれば生じうると考えられ、当時繩は広範囲の用途に使用されていたのであるから、荷礼その他特に何らかの標識のある場合は格別、これをたやすく防長新聞を梱包したものに限定して認定することはできないから、現場遺留繩をたやすく藤村の農小屋から持ち出した繩と認めることはできず、結局被告人の供述を裏付けるに足りる確実な証拠がないといわざるをえない。

第七本件犯罪発生当時、被告人が月星印の十文半もしくは十文七分の地下足袋を所持着用していた事実があるか否か

本件犯罪現場に血に塗れた月星印地下足袋の足跡が残つていて、それが十文半もしくは十文七分の地下足袋に相当することは、既に説示したとおりである。従つて本件発生当時、被告人が月星印の十文半もしくは十文七分の地下足袋を所持着用していたか否かの点は、最高裁差戻判決の指摘するように、被告人の自白の信用性を判断する重要な資料である。

(一)  被告人の供述の経過内容

(1)  捜査段階における供述

(イ)  司法警察員に対する昭和三〇年一一月八日付供述調書(三の一一四八)によると、

昭和二九年八月二日頃名古屋市の鴻池組吉本飯場の仕事を終つて次の職場に行く途中、名古屋駅裏の商店街でシヤツ、ニツカーズボンの外地下足袋を買つた。

(ロ)  司法警察員に対する昭和三〇年一二月四日付供述調書(四の一二二四)によると、

悪いことをするとき履いて来た地下足袋は、昨年八月三日頃、名古屋駅の裏通りの駅から四、五町位行つた所の商店街に行けば右側のゴム類専門店で買つた十文七分の普通の型の地下足袋で、裏は波形になつている地下足袋であつたが、何印であつたかはわからない。

(ハ)  司法警察員に対する同月二五日付供述調書(四の一二六七)によると、

昨年一〇月一九日大阪市天王寺公園を出たときは、十文七分の普通の新しい方に地下足袋を履いていた。

というのであつて、検察官に対する供述調書においても、検察官録音の際にも、右一二月二五日付の司法警察員調書とほぼ同旨の供述をしているのである。

なお、右各供述調書の任意性立証のため提出された警察官録取の録音テープ中にも地下足袋に関する供述が散見されるので、これを摘記すると、

(ニ)  「あの来た時にさらを履いて来たんや、いよいよいたんではおりやへん。ありや土方につかわれん足袋ぢやつたからのう」(第五巻)

(ホ)  「土方用かそれとも仕事に使われん方かよう考えて言うてみい」との質問に対し、「両方に使われるのです。下はほとんど同じで二重底の分、辺りが巻いてあるやつで下は違わん同じです。とびは下だけー枚に」(第一三巻)

(ヘ)  「あれは名古屋で八月に買つた地下足袋です。十文七分で朝日ぢやつたと思いますがあんまりよくは覚えてはいない。裏は波形ぢやつたと思う。」

(2)  公判段階における供述

(イ)  昭和三五年五月一二日一審第四一回公判調書(六の二一〇五)によると、

名古屋で買つた地下足袋は、十文七分の五枚ハゼの鳶職用の一枚裏の地下足袋であつた。

(ロ)  昭和三六年三月二二日一審証人小崎時一の尋問調書(七の二五〇六)中の被告人の供述によると、

自分が地下足袋を買つた店は、駅から真直ぐに行つて右側の神社から二〇〇米位先の右側の店であつた。

(ハ)  昭和三八年二月一八日受付上申書(一〇の三四七七)によると、

名古屋でニツカーズボン等を買つた所とは反対側の店で、四枚ハゼのオカ足袋を買つた。

(ニ)  昭和四一年二月一八日旧二審第四回公判調書および被告人作成の図面(一二の四三二三)によると、

地下足袋は名古屋駅裏口から、真直ぐに行つて右側に八幡様があるその近くの店(但しその供述を明確にするため作成提出した図面では、その距離は一五〇米)で買つた。その店先には下駄、ゴム草履も陳列してあつた。自分の買つた地下足袋の裏ゴムは、色は黒色で横一文字の山形に突起したひだがあり、普通の地下足袋のように底から上の布の部分にかけてゴムが貼つてあるのとは違い、上にゴムは貼つてなかつた。

というのであり、さらに同年二月二二日受付の上申書(一二の四三三七)では足袋と裏ゴムの縫付部分を明示した図面を添付して提出している。

(3)  これを要するに、被告人は地下足袋の銘柄についてそれが月星印であると供述したことは一度もなく、また種類についても供述の都度様々に異なる供述をしている。もつとも捜査段階においては供述調書上普通地下足袋で一貫しているようであるが、右(1) の(ニ)(ホ)(ヘ)のような録音供述も存在することに照らすと終始普通地下足袋の主張をしていたものとも認め難い。さればといつて終始鳶職用の地下足袋であると主張していたとも認め難い。すなわち、右録音供述中には「鳶職用」という当時の被告人の知識、経験からはいとも容易に言い得る言葉が全く使用されていないのであつて、右の(1) の(ホ)のように土方用の足袋であつたかどうかにつき選択の余地を残した質問に対しても単に両方に使われる足袋であつたと答えたのにとどまり「鳶職用」であつたとは明言しておらず、この点からすると被告人が捜査段階で当初から鳶職用の地下足袋であると主張供述していたものとも認め難いのである。しかるに、被告人は公判段階において鳶職用の地下足袋である旨主張供述しているのであるが、ハゼの数においては異なる供述をし、また第一回公判から九年以上を経過してそれまでとかく明確な供述をしていなかつた地下足袋の模様、裏ゴムの色、縫付部分の状況など異状といえる程の詳細な供述をするに至つているのであつて、このような公判供述の経過に照らすと、右供述にいう地下足袋に似たものが現実に存在したとしても、右供述が昭和二九年当時の記憶に基づくものと信ずるわけにはいかないのである。そうすると結局被告人の地下足袋に関する供述中終始変らないのは、地下足袋を買つた店が名古屋駅裏商店側の行けば右側のゴム類専門店であるということだけであるから、右店を確定することによつて被告人が当時着用していた地下足袋の銘柄、種類を推定する外はなく、以下この点を検討する。

(二)  被告人が地下足袋を買つた店に関する裏付証拠

(1)  一審、旧二審で取調べられた証拠中名古屋駅裏商店街の右側の店で当時地下足袋を販売していたところとして取調べられたのは、旧二審証人本郷常弐、同富士江の各尋問調書(一三の四五九三、四六〇三)のみであつて、これらによると、

昭和二〇年一二月頃から、この名古屋市中村区椿町で商売を始めた。昭和二九年夏頃には靴とカバンと半々位置いていた。下駄を販売したことはない。地下足袋は手製の縫付の地下足袋と貼りつけの地下足袋の両方を売つていた。四枚、五枚、七枚、一〇枚ハゼの地下足袋を扱つていた。そのうち四枚ハゼの地下足袋は昭和二九年頃短期間扱つただけである。この図面(昭和四一年二月二二日被告人作成提出の図面を複製したもの)は大黒印地下足袋の特徴を表わしている。神社から西で大黒足袋を扱つているのは私方だけである。月星印は扱つたことはない。

というのである。

しかし、旧二審検証調書(一三の四六一三)によると、本郷商店は神明社(椿神社ともいう)の西方五軒目にあつて(なお後記(2) の(ニ)参照)、被告人が右(一)の(2) の(ニ)の図面で指示した店の位置とは著しく異なり、また、本郷商店がゴム類専門店といえず、下駄も売つていなかつた点で右(一)の(2) の(ニ)の供述と異なり、地下足袋の類似性をもつてしてもこれに関する被告人の供述の信用できないこと右(一)(3) に説示のとおりであるから、結局被告人が地下足袋を買つたのが本郷商店であるとは認め難い。

なお、検察官は一審、旧二審において被告人が地下足袋を買つた店は小崎時一商店であると主張し、一審、旧二審証人小崎時一、旧二審証人小崎富美子の各尋問調書によると、同人らは昭和二九年八月当時名古屋駅西商店街の左側の店で月星印の地下足袋を売つていたこと、鳶職用の地下足袋を扱つていたことはなく、小崎店の近くで靴類専門店はなく、神社の側で月星印地下足袋を売つている店も一軒もなかつたこと、被告人に地下足袋を売つたかどうかは分らないことが認められるのであるが、被告人は月星印の地下足袋を買つたとは一言も供述したことがないので、たとえ月星印を売つていた店があつたとしても直ちに同店が被告人の買つた店とはいえないことはいうまでもなく、その上小崎店は名古屋駅西商店街の左側というのであるから被告人の供述と明らかに相反し、その他検察官の立証によつても被告人が右小崎時一方で買つたとの証明以十分でない。もつとも一審証人山口信は、被告人が地下足袋を名古屋駅の裏を真直ぐに行くと右側にお宮があり、そこから一町位行つたところのゴム製品を売つている店で買つたと自供し、図面を作成したので、これを持つて裏付捜査に名古屋市に行つたところ、被告人の自供どおりのところに小崎時一商店があつた旨証言しているのであるが、被告人が書いたという図面が現存しないので右証言をもつて被告人が買つた店を左側に指示したことがあるとの証左とはなし難く、むしろ、山口証人は月星印を販売していた小崎時一店の発見に幻惑され、同店こそ被告人が買つた店と速断し同店が商店街のどちら側にあつたかの点で被告人の供述とそごするかどうかにつき関心をもたなかつたものと考えられる。

(2)  ところが、検察官は当審になつて、小崎時一は昭和二九年八月当時は、左側店舗の外に右側の同人の元の住居でも店を持ち、その店でも、月星印地下足袋を販売していた事実があると主張し、検証、証人尋問、書証の取調を求めたので、その証拠調の結果を検討する。

(イ)  当審証人鬼頭みや子の尋問調書(二七の一一一〇一)によると、

私方は乳母車の製造、卸、販売をしていたが、昭和二五年初頃名古屋市中村区則武町五の五〇に小さな店を出した。最初の間は主人の弟達が住込んで店をやつていたが、昭和二九年一一月二五日頃その弟も結婚して転居したので、それまでときおり店に行つていただけの私も、同年一二月頃から毎日清洲から定期券で店番に通うようになつた。その店は間口一間半、奥行四間半位で、南隣には小崎靴店があり、同店の間口、奥行は私方の店とほぼ同じであつたと思うが、奥に鍵の手に部屋があつた。そして店先に一寸したケースが置いてあつたが、その中に何があつたか記憶にない。ただ若い人が靴の修理をしていたのを見た記憶がある。昭和三二年八月頃私方の則武町五丁目のその店から他に転居する頃は、小崎方には銀座通の方に店を持たれ、私方の南隣りでは店はしていなかつたと思う。

(ロ)  当審証人小崎時一の尋問調書(二七の一一一八九)によると、

私は戦時中清洲町に疎開していたが、昭和二三年頃名古屋市則武町五丁目五〇番地に家を買つて移転し、主として皮靴の販売と修理をし、ゴム靴なども売つていた。その店は間口一間半、奥行八間位で奥に六畳位の部屋もあつた。その店は十二、三年やつていたと思う。その後銀座通の南側(左側)に店を出した。その場所は則武町五丁目五六番地というのが正確である。月星印の地下足袋の特約店となつたのがその店を出した頃と思う。その時までは特約店制度がなく、どこで仕入れて売つても良かつたと思う。則武町五丁目五〇番地の元の店は、その建物などを「万勇」に売渡す半年位前までは、銀座通の店と並行してやつていた。しかし経営の八割位は銀座通の店に注ぎ、五〇番地の古い店には、陳列棚に皮靴を置き、皮靴の修理をする位で、その店に来た客が注文すれば、月星印の地下足袋を銀座通の店から取り寄せて売つたり、たまたまその店に有合せの月星印の地下足袋を売る程度であつて、家族の炊事や食事、一部家族の住居として利用していた。

(ハ)  当審証人小崎富美子の尋問調書(二七の一一一四四)によると、

昭和二三年頃名古屋市中村区則武町五丁目五〇番地に皮靴やゴム長の靴の店を出した。その店の間口は二間、奥行は店の方が二間半でさらにその奥に一部屋寝起きする部屋があつた。その店は七、八年位していたと思う。初孫の孝司が生れた昭和三〇年二月頃までは西銀座通の店と五〇番地の古い店と両方やつていたが、私達は西銀座通の方の店にいて、商売はその方に集中し、古い方の店には長女夫婦がいて、食事は全部そちらの方でし、家財道具もそちらの方に置いていた。西銀座通の店には、男女皮靴やゴム靴類の外、月星印の地下足袋も置いて販売していたが、五〇番地の古い店の方には月星印の地下足袋をあまり並べて置いてはいなかつたと思う。しかしその店に来たお客さんが言われれば、西銀座通の店から持つて来て売つたこともあると思う。

というのである。

(ニ)  次に名古屋市中村区長作成の「関係書類謄本送付について」という書面、同区長作成の住民票謄本(二五の一〇二一一、一〇二二六)および当審検証調書(二七の一一〇〇五)によると、

旧二審まで名古屋市中村区則武町五丁目五〇番地と考えられていた名古屋駅西銀座通左側の小崎商店の地番は、実は同町五丁目五六番地で、小崎時一は、同所に店舗を設ける以前の昭和二三年五月三一日頃、則武町五丁目五〇番地に愛知県西春日井郡清洲町より転入して住宅兼店舗を構え、昭和六年生れの長女芳子等の子女と居住していたこと、右住宅兼店舗は、名古屋駅西銀座通商店街の一角にある神明社の境内入口より西方一五六米位の地点で、西銀座通道路と交差する南北道路を北方(右側)に約一二、三米入つた地点の道路西側沿いに当り、直接西銀座通に面してはいないが右側商店街の飯田荒物店北側に隣接していること、右住宅兼店舗は新幹線名古屋駅西出口(これと東海道線旧名古屋駅西出口の位置関係は明確ではないが、当審証人鈴木忠夫の証言により大差はないと認められる)からは、西方四四五米余(四町余)の地点に当り、なお本郷商店は神明社入口から僅かに三六米、新幹線名古屋駅西出口からは三二五米余(約三町)の地点に当り、また西銀座通左側の小崎商店は本郷商店のななめ向側にあつて同店の西方約五〇米の地点に当ることが認められる。

(ホ)  以上の証拠によると、昭和二九年八月当時名古屋駅から四町余り、神明社から一六〇米位の駅から行つて右側にも小崎商店があり、同所でも小規模ながら靴、地下足袋等を売つていたと認められ、これと被告人の前記(一)の(2) の(ニ)の供述、指示、同(一)の(1) の(ロ)の供述と対比すれば、駅から或いは神明社から右店までの距離がほとんど一致していることが明らかであるから、被告人が当時右小崎商店(元の店)で地下足袋を買つた可能性はかなり強いと考えられる。しかし、右(ニ)のように右小崎商店は西銀座通から北にやや入つたところにあつてこれを西銀座通の右側の店といえるかどうか疑問の余地があり、被告人が捜査段階で書いたという買つた店を指示した図面が存在しない上、初期捜査の誤りから右小崎店についての捜査やその他西銀座通右側のゴム類専門店の存否についての捜査を怠つているので、被告人が右小崎商店で地下足袋を買つたことについてはなお疑が残り、これがほとんど確実であるとまでは断言できない。

(三)  これを要するに、地下足袋の種類についての被告人の供述は首尾一貫しているとはいえず、専ら被告人が地下足袋を買つたという店の如何により地下足袋の銘柄、種類を推定するほかないところ、検察官が旧二審判決までに主張していた西銀座通左側の小崎時一店或いは弁護人が主張する本郷商店が被告人の地下足袋を買つた店であるとの根拠に乏しく、検察官が当審で主張した小崎時一店(元の店)が被告人の地下足袋を買つた店である蓋然性はかなり強いけれども初期捜査の誤り等からこれを確実であるとまでいうことはできないので、結局買つた店が証拠上確定し難く、その他被告人が逮捕されたときに履いていた地下足袋についてその銘柄、種類を確認保全する措置をも講じておらず、以上検討の結果を総合すると、被告人が本件発生当時着用していた地下足袋の銘柄が、月星印であつたと断定することはできない。

従つて本件犯罪現場に残つていた月星印地下足袋の足跡を被告人の足跡と認めることはできないところである。

以上のとおり、差戻判決の指摘する六点についての被告人の供述の裏付は、一部を除きその確実性は増加し、被告人の自白、真実性の信用性も一段と増強した感はあるが、なお程度の差はあつてもそれぞれの点に合理的な疑をいれる余地を残し、差戻判決にいう高度に確実で合理的な疑をいれないほど決定的な証拠はついに発見しえなかつたのである。そして、右六点以外についてもできる限り審理を尽し、記録を精査したのであるが、前記第四に説示のとおり他にも決定的な証拠はなく、また逃走経路についても、被告人がその生育歴、職業歴からして付近の地理に詳しいと認められることを考慮にいれると、たとえ被告人の供述が客観的事実と符合するところがあつても、直ちに、被告人が本件犯行後逃走の際の体験を供述したものと限定して推論することはできない。

してみると、被告人の自白に真実性、信用性があるとしてこれと挙示の証拠により、本件強盗殺人の罪につき被告人を有罪とした一審判決は、証拠の価値判断を誤り、事実を誤認した疑があり、本件については疑わしきは被告人の利益に従うとの原理に則り、被告人に無罪を言渡すのを相当と考える。

これを要するに、本件強盗殺人の公訴事実に関しては、自白の証拠能力に疑問があるばかりでなく、事実誤認の疑も存するので、一審判決中右事実に関する部分はもとより、これと刑法四五条前段の併合罪の関係にあるものとして一箇の刑を宣告されている同判示第二に関する部分もともに破棄を免れない。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条、三八二条により、一審判決中第一の部分を除きその余を破棄し、同法四〇〇条但書により、当裁判所は直ちに判決する。

(罪となる事実)

一審判決判示第二の事実

(累犯前科、確定裁判)

被告人は

1  昭和二五年四月二七日(五月一二日確定)、飯塚簡易裁判所で、窃盗罪により、懲役一年に処せられ、同二六年三月二七日、右刑の執行を受け終つた。

2  同二七年七月一七日(八月八日確定)、山口簡易裁判所で、窃盗罪により、懲役六月に処せられ、同二八年一月三一日、右刑の執行を受け終つた。

3  同三七年六月三〇日(確定)、山口地方裁判所で、住居侵入、窃盗未遂の各罪により、懲役四月に処せられた。

右の各事実は、検察事務官作成の昭和四六年一月二〇日付前科調書(三五の一四六八八)によつて、これを認める。

法律に照らすと、一審判決認定にかかる判示第二の所為は、刑法二三五条に該当するところ、右罪と前示(3) の確定判決を受けた罪とは同法四五条後段の併合罪の関係にあるから、同法五〇条によりさらに判示第二の所為につき処断することとなるが、前示(1) (2) の前科があるので、同法五六条、五七条、五九条により累犯加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処する。

なお、本件公訴事実中強盗殺人の点は、さきに説示したとおり犯罪の証明が十分でないから、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により、無罪の言渡をする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 幸田輝治 裁判官 村上保之助 裁判官 一之瀬健)

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